のない青白い肉塊が中心ではなく、冷静な教授の唇の間から漏れて首を集めている人たちの耳に入って行く理知の言葉が中心である。その首の集まりはピラミッド型を構成して、光と色調で頗る巧みに画面の上に浮き出している。
二十五歳の青年画家レンブラントはこの野心的な大幅(5.3X7.1 ft.)に依って一躍して名を成したといわれるが、その形の確実と構図の安全と色彩の沈着は五十歳の老大家の作品といっても誰も疑うものはなかろう。私はヴァティカノでミケランジェロの美しい高貴な「ピエタ」を見て、それが二十三歳の時の彫刻だということを思い出した時、天才の魂の老熟に心を奪われたが、同じ驚嘆はレンブラントの「解剖講義」に対しても押し包むことができなかった。
六
アムステルダムの国立博物館《リイクスムゼウム》では「夜警」(一六四二年)と「織物商組合評議員」(一六六一年)が有名であるが、そのほかに「エリザベト・バース」(老婦人の像)と「或る婦人の像」(中年の婦人の像)と火事で焼け残った「解剖講義」(一六五六年)の断片も忘られないものである。
「夜警」の評判は殆んど世界的で、それがあまりに私を期待させた為か、白状すると、それほど圧倒されはしなかった。大きさ(12X14 ft.)と描かれた人数の多いこと(二十数名)とすばらしい明暗法の技術には驚いたが、画の中から迫って来る力に感心する前に、まず雑然たる構図の混乱に悩まされ、それが最後まで鑑賞を妨げた。或いは私の鑑賞力の偏狭なためかも知れないが、今、写真を取り出して見直して見ても、その時の印象がまだこびりついていてどうすることもできない。
私たちを案内してくれたカルコーン君は、画面の中央前方に暗褐色のびろうどの上衣を着て右手に杖を持ち左手をひろげて前にさし出した大尉フランス・バニング・コックを指ざして、どうです、あの手は画面から外へ突き出してるじゃありませんか?といった。全くその通り、その手は画面から飛び出してるように見えた。それと並んで中尉ウィレム・ファン・ラウテンブルクは黄いろい皮の上衣を着て左手に短い槍を提げ、大尉と話しながら歩いて来る。その二人の主要人物については申し分はないが、あとの二十余人の姿は暗い背景の中に溶け込んで、飛道具を持ってる者、鉾を突いてる者、槍を横たえてる者、旗をさし出してる者、太鼓を叩いてる者、それ等が話し合ったり、脇見をしたり、振り返ったり、てんでんまちまちの形で群がって、何をしているのだかわからない。
この画も実は組合員肖像画として注文を受けたもので、アムステルダムの市会議事堂に懸けられるために、市民射撃隊がコック大尉とファン・ラウテンブルク中尉に引卒されて射撃隊組合本部から繰り出す光景を描いたものである。それが長い間夜警団の勢揃えを描いたものと誤解されていたというのも、画の目的がわからなかったからに相違ない。よくよく見ていると説明の付きかねるものがいろいろ発見されるが、例えば画面の左寄りに赤い服を着た射撃手の後に少女が一人と子供が一人いる。彼等はこの騒ぎの中で、しかも射撃隊組合本部の建物の中で何をしてるのだろうか? そんなことは問題にしないとしても、全体がばらばらになっていて、どうも私にはまとまりがつかない。まとまりのつかない所をねらったのだといえばそれまでだが、それでは画家の沽券《こけん》に関するだろう。
しかし、私が心配する前に、この画は描き上げられるとすぐアムステルダム市民の不満を買った。第一に、組合員の大部分が不満だった。大尉と中尉だけはよく描いてあるが、あとの組合員は全部|端者《はもの》のように蔭に押し込められて中には顔さえも判明しないものが少くないので、大枚千六百フロリンを払って却って侮辱を買ったと彼等は思い込んだのだ。その不満が市民一般に感染し、それ以後レンブラントの名声は急に低下して行ったと伝えられている。けれどもそれはレンブラントのために弁護しなければならぬ。レンブラント以前にフランス・ハルスも(ハーレムの射撃隊組合のために)、ラフェステンも(ハーグの射撃隊組合のために)、類似の注文を受けて描いたが、しかしレンブラントは単に二十幾人の似顔を並べて描くのでは彼の芸術的本能が承知しなかった。彼は組合員の顔を材料にして一つの「画」を作り上げることに専ら興味を持った。彼はオランダの各都市の市民が自由のために武装して立った歴史を思い出して、市民の勇気を主題とする一つの「画」を作り上げることに注文を生かそうと企てた。丁度その頃は愛妻サスキアが重態の病床に就いていて彼は心を煩わされていたが、この画の完成に心を打ち込んで、憂苦をまぎらしていた。もとより組合員某某等(その氏名は画面の円柱の上に懸けられた紋章の楯の表に書かれてある)各自の気持などは眼中に置くレン
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