から洩れる一言半句をも聞き落すまいと全身を耳にした。先生は多くの訓詁註解者の上に立つて全然自分一箇のあたまで批判しようとしてゐたらしい。Furness の集註本を唯一無二の金科玉條と心得てゐた私たちにとつて、それは一つの驚異であつた。その解釋と批評の言葉がそれきり空間に消えてしまふのが限りなく惜まれた。私はペンを走らして出來るだけその言葉を Text の間に書き留めて置いた。それが此の筆記である。併し私のあたまは主として原文を理解する事の方へ向つてゐなければならなかつた。だから書き留め得たものは、先生の口を洩れたものの果して何分の一に過ぎなかつたであらう。今久しぶりに取り出して見て、殊にさう感じられる。まだいろいろあつたやうにも思はれるが、今更どうすることも出來ない。だが、これだけでも、讀んで見ると、私には、すでにおぼろげになつた記憶の間からさまざまの影像が浮かみ出して來て、その時感じたであらうやうな暗示を感じることが出來る。それと同じやうな印象を、此の書の讀者に、私の不完全なる筆記が若し與へることが出來て、漱石先生の特異なる表現の幾分かをでも再現せしめることが出來るならば、私としては
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