杉メ照)と聖ヨハネ(ジョヴァンニ)の洗禮所との間。當時のフィレンツェ市をその南北の城壁によりて表はせり
【今住む者】現住者にして武器を執るを得る者
註釋者曰く。一三〇〇年にはフィレンツェの人口約七萬(この中武器を執るを得る者三萬)なりき、故にカッチアグイーダの頃には約一萬四千(兵たりうべき者六千)なりきと
四九―五一
以下末まで第四問の答
【カムピ、チェルタルド、及びフェギーネ】フィレンツェの附近にありてこの市に屬しゝ小さき町の名。カムピはビセンチオの溪に、チェルタルドはエルザの溪に、フェギーネはアルノの溪にあり
【純なり】これらの町より人々出でゝ市に移住するにいたれるまでに市民の血全く純なりき
五二―五七
これらの民各※[#二の字点、1−2−22]其處に止まり、市その領域を漫りに大ならしめざりせば、諸民の混亂より生ずる禍は避けられしならむ
【ガルルッツォとトレスピアーノ】前者はフィレンツェの南二哩にある村、後者は同市の北三マイルにある村。昔の市領の境
【汝等の境】フィレンツェ領の境
【アグリオン】ペーザの溪の城
註釋者曰く。アグリオンの賤男とはメッセル・バルド・ダグリオネ即ちダンテと同時代の人にてフィレンツェ市に權勢を振ひ、かつ市の記録に關し淨、一二・一〇三―五(註參照)に見ゆる不正行爲ありし者を指すと
【シーニア】フィレンツェの西七マイルにある町
註釋者曰く。シーエアの賤男とはメッセル・ファーチオ・デーイ・モルバルヂニとて同じく市に權勢をふるひし汚吏の事なりと
五八―六〇
【最も劣れる人々】法王僧侶等寺院に屬する人々
【チェーザレと繼《まゝ》しからず】皇帝と爭はず
寺院が皇帝を敵視せるより政道その宜しきを失ひて爭亂止まず、市外の民難を避けて市内に入來り、市に秩序なく安寧なきに至れるをいふ、以下その例を擧ぐ
六一―六三
【ひとりの人】不明
【物乞へる】andava………a la cerca おもに僧侶の托鉢するをいふ
【シミフォンテ】エルザの溪にありし城。この城一二〇二年フィレンツェ人に毀たる
六四―六六
【モンテムルロ】ピストイアとプラートの間の城。この城もとグイード伯爵家の所有なりしがピストイア人の難に堪へずしてこれをフィレンツェ人に賣りたり(一二四五年)
【チェルキ】この一家はもとアーコネ(シエーヴェの溪にあり)の寺領なるモンテ・ディ・クローチェ城に住みしがこの城フィレンツェ人に奪はれし時(十二世紀の年頃)市に移住せり
【ボンデルモンティ】ブオンデルモンティ。グレーヴェの溪なるモンテブオーニの城主。一一三五年フィレンツェ人この域を奪ふ
七〇―七二
【盲の牡牛】體大にして智伴はざるを市の膨脹して而して治まらざるに譬ふ
【五】數多くして用ゐ難きを人口多くしてかへつて活動を缺くにたとふ。五はさきに五分一といへるに應ず
七三―七五
【ルーニ】昔の町の名【地、二〇・四六―八註參照)
【ウルビサーリア】マルカ・ダンコナの昔の町の名
【キウーシ】トスカーナ州の南端にてヴァルディキアーナ(地、二九・四六―五一註參照)にある町の名
【シニガーリア】マルカ・ダンコナの町の名
八二―八四
【渚をば】潮の滿干《みちひ》によりて
八八―九〇
【ウーギ、カテルリニ】その他こゝに出づるものは皆カッチアグイーダの時代におけるフィレンツェ屈指の舊家なりしかど既にその頃より衰運に向ひゐたるなり
九一―九三
【ラ・サンネルラ及びラルカ】その他こゝに出づるものはみな名立たる舊家にてカッチアグイーダの時代においてはなほ盛なりしかどその後衰ふるにいたりたり
九四―九六
【門】ボルタ・サン・ピエーロ(聖ピエートロの門)。一三〇〇年の頃チェルキ家(六四―六行)この門のあたりに住みゐたり、「チェルキ」は白黨の首領となりて「ドナーティ」と爭ひ、フィレンツェ全市を爭亂の渦中に投じゝものなれば新なる罪を積むといへり
船はフィレンツェなり、チェルキ一家を容れてこれに權勢を得しめしため、フィレンツェの受くる禍ひ甚大なるをいふ
九七―九九
【ラヴィニアーニ】フィレンツェの名門。ボルタ・サン・ピエーロの邊《ほとり》にありしその邸宅グイード家に移り、後チェルキ家の所有となれり
【伯爵グイード】ラヴィニアーニの家長なるベルリンチオーネ・ベルティ(天、一五・一一二―四參照)の女グアルドラーダと老グイードとの結婚(地、一六・三七―九註參照)によりて多くのグイード「ラディニアーニ」より出づ、故に伯爵グイードとは老グイードの子孫なるグイーディの一門を指せるなるべし、地、一六・三八にいづるグイード・グエルラはその一人なり
【名を襲げる者】グアルドラーダの姉妹二人の中一はドナーティ家に嫁し、一はアーディマリ家に嫁したれば、その子孫にしてベルリンチオーネの名を襲げる者多かりき
一〇〇―一〇二
【ラ・プレッサ】フィレンツェの名門。「治むる道を知り」たるは大官となりゐたるなり
【ガリガーイオ】「ガリガーイ」家は同じくフィレンツェの名門にてギベルリニ黨に屬し勢甚だ盛なりしが後零落して見る影なきに至れりといふ
【黄金裝の】劒の柄に黄金を用ゐることは騎士にのみ許されしなり、故にかゝる劒を持てりとは騎士となりゐたる意
一〇三―一〇五
【ヴァイオの柱】フィレンツェの名門ピーリ家の事。vaio は栗鼠族の動物の名、紋章の語にてはその皮模樣を紋所に現はすをいふ、ピーリ家の家紋はヴァイオの一縱線(即ち柱[#「柱」に白丸傍点])を赤地にあらはしゝものなれはかく言へり
【サッケッティ、ジュオキ】等フィレンツェの舊家名族を擧ぐ
【赤らむ家族】「キアラモンテージ」家。その一人鹽を市民に賣るに當りて不正の利益を貪れることあり(淨、一二・一〇三―五並びに註參照)
一〇六―一〇八
【木の根】「ドナーティ」家。この一門分れてドナーティ、カルフッチ、ウッチェルリーニ等の諸家となれり、特にカルフッチを擧げしはその早く頽廢したるによりてなるべし
【シツィイとアルリグツチ】いづれもその頃高官を得て時めきゐたるフィレンツェの家族
【貴き座】curule 美しく裝飾せる倚子にて昔ローマの高官の座に用ゐしもの
一〇九―一一一
【家族】フィレンツェ屈指の名族なりしウベルティ家。この一家の浮沈については、その出にて、「地獄を嘲けるに似た」るファリナータの條參照(地、一〇・三一以下並びに註)
【黄金の丸】フィレンツェの名族ラムベルティ家。その紋章青地に黄金の丸を現はせるによりてかくいへり、かのブオンデルモンテ殺害の事に與りしモスカ(地、二八・一〇六參照)は即ちこの家の出なり
一一二―一一四
【人々】ヴィスドミニ、トシンギの兩家の人々。フィレンツェ僧正領地の監督者たり、僧正の倚子|空《あ》くことあればその後繼者定まるまで寺院の收入を司り、以て私腹を肥しきといふ
【相集ひて】stando a consistoro コンシストロとは法王とカルディナレ等高位の僧との會議もしくは會議の場所をいふ。こゝにては彼等の如く相會して、寺領の收入を處理する意
【父】祖先
一一五―一一七
【族】アーディマリ家。その分家に「アルゼンティ」(地、八・三一―三註參照)あり
一一八―一二〇
【ウベルティーン・ドナート】ベルリンチオーネ・ベルティの婿のウベルティーノは、舅ベルリンチオーネがその第三女をアーディマリ家の者に與へて(九七―九行註參照)彼(ウベルティーノ)をば彼等(アーディマリ家)の縁者たらしめしを喜ばざりき
一二一―一二三
【カーボンサッコ】カーボンサッキ家はフィエソレよりフィレンツェ舊市場(Mercato Vecchio)のあたりに移りしものにて十二世紀の頃市の高官この家族より出でたり
【ジウダとインファンガート】ジウディ、インファンガーティの兩家。いづれも十二世紀の頃に榮えしフィレンツェの家族
一二四―一二六
フィレンツェの昔の城壁の門の一なるペルッツァ門(Porta Peruzza)が「ラ・ペーラ」即ちペルッツィ(Peruzzi)一家の名に因みて名づけられしものなりとは(今は亡びて知る人もなき「ペーラ」の一家が城壁の門に名を與ふるほど昔盛なりしとは)誰か信ぜむ
一二七―一二九
【領主】皇帝オットー三世の代理者としてフィレンツェに任せるフーゴ侯爵
フーゴは一〇〇六年聖(使徒)トマスの祭日(十二月二十一日)に死せり、人々これをバディーア僧院に葬り、かつ年々この日において記念の祭典を行へり
【紋所】紅白七條の縱線。但しこの紋を用ゐし騎士の家族によりて多少の變更あり、故に「分け用ゐる」といへり
一三〇―一三二
【騎士の】フーゴはプルツィ、デルラ・ベルラ、ジャンドナーティ等フィレンツェの諸家族に騎士の位と貴族の殊遇とを與へたり
【卷くもの】ジヤーノ・デルラ・ベルラ。十三世紀の末、庶民の味方となりて權門勢家に反抗し、遂に郷國を棄てゝフランスに走れり。デルラ・ベルラ家の紋はフーゴの紋の周圍を細き金線にて卷けるもの
一三三―一三五
【グアルテロッティ、イムポルトゥーニ】ともに一時盛なりしフィレンツェの家族
【隣人等】モンテブオーニ城よりフィレンツェに移住せるブオンデルモンティ家(六四―六行註參照)
【ボルゴ】ボルゴ・サンチ・アポストリ。グアルテロッチとイムポルツーニの住みしところ、後ブオンデルモンティこの兩家の隣に住めり
一三六―一三八
【家】アーミデイ家。アーミデイ、ブオンデルモンティ兩家の爭ひについては地、二八・一〇六―八註參照。爭ひの始めは破約者に對するアーミデイ家の怒りなれば義憤[#「義憤」に白丸傍点]といへり、この怒りのためブオンデルモンテ殺害せられ、兩家の爭ひはひいて全市民の爭ひとなり、多くの人々血を流し、市その平安を失へり
一三九―一四一
【人の勸】ドナーティ家の一婦人己が娘をブオンデルモンテに嫁《とつ》がせんとて破約をこれに勸めしをいふ
一四二―一四四
【神汝を】汝もしエーマ川に溺死してフィレンツェに入來らざりせば
【エーマ】ヴァル・ディ・グレーヴェなる小川の名。モンテブオーニよりフィレンツェに來るものこの川を過ぐ但しモンテブオーニの沒落は一一三五年にて、ブオンデルモンテの殺害は一二一五年の事なれば、一四〇行のブオンデルモンテは破約者を指せるに非ずしてその家族を指せるもの、また「汝はじめて」といへるはこの家族(即ち被害者の父祖)がはじめてフィレンツェに移り來れるをいへるならむ
一四五―一四七
【缺石】破損したるマルチの像にてポンテ・ヴェッキオの一端にありしもの(地、一三・一四五―七註參照)。ブオンデルモンテの殺されし處は即ちこの像の下なりき、故に被害者を指してマルテの牲《いけにへ》といへり
一五一―一五三
【百合】フィレンツェの旗(一五四行註參照)
【倒に】中古敵の旗を奪ふ時は竿を倒さにして戰場を引※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し侮蔑の意を示す例ありきといふ。フィレンツェ軍が常に戰ひに勝ち、旗を敵手に委ねしことなき意
一五四
【紅に】市の昔の紋章は赤地に白の百合なりしが一二五一年グェルフィこれを變へて白地に赤の百合となせり


    第十七曲

カッチアグイーダさらにダンテの問いに答へてその行末の事を豫言し、これに流刑の憂さつらさを告げ、かつその冥界の見聞を忌憚なく世に傳へんことを勸む
一―三
【者】パエトン(フェトン)。父アポロン(日)に請ひその許をえて火車を轉らせるため慘死す(地、一七・一〇六―一四註參照)、これ世の父たる者をして子の請ふ所に戒心せしむる一教訓なり
【クリメーネ】クリュメネー。パエトンの母。エパポス(ゼウスとイノの間の子)なる者パエトンを罵り汝は母のたゞ言を信じて父ならぬ父に誇るといふ、パエトン即ち母の許に行き己が父の果して日の神なるや否やを質《たゞ》せり(オウィディウスの『メタモルフォセス』一・七四八以下參照)
四―六
【彼の如く】パエトンがエパポスの言を聞きて眞を知らんと欲するの情切なりし如く、ダンテは己が未來に關しファリナータ(地、一〇・七九以下)、ブルネット(地、一・六一以下)、クルラード(淨、八・一三三以下
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