老巡査
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)睦田《むつだ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一足一足|毎《ごと》に
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睦田《むつだ》老巡査はフト立ち止まって足下《あしもと》を見た。黄色い角燈《かくとう》の光りの輪の中に、何やらキラリと黄金色《きんいろ》に光るものが落ちていたからであった。
老巡査は角燈を地べたに置いた。外套《がいとう》の頭巾《ずきん》を外して、シンカンと静まり返っている別荘地帯の真夜中の気はいに耳を澄ましたが、やがて手袋のまま外套の内ポケットを探って、覚束《おぼつか》ない手付きで老眼鏡をかけながら、よく見ると、それは金口《きんぐち》の巻煙草《まきたばこ》の吸いさしを、短かい銅線の切端《きれはし》の折れ曲りに挟んで、根元まで吸い上げた残りであった。そこいらにすこしばかり灰が散らばっているところを見ると、ツイ今しがた投げ棄てたものらしかったが、しかし火は完全に消えていた。おおかた冷たい大地の湿気を吸ったものであろう。
睦田巡査は、いくらか失望したらしく、力ない手付きで眼鏡を外した。そうして、
「心配なことはない」
と口の中でつぶやきながらモウ一度そこいらの暗闇を見まわしたが、なおも念のためにその吸殻《すいがら》を泥靴でゴシゴシと踏みにじって、火の気がないことを確かめてから、老眼鏡をモト通りに、外套の頭巾を頭の上に引上げると、又も角燈を取り上げながらポツリポツリと歩き出した。……すこし睡《ね》むくなりながら……。
彼は、こうして幾カラットのダイヤモンドにも優《まさ》るスバラシイ幸運を踏みにじって行ったのであった。金口の煙草を、そんな風にして吸う人間がドンナ種類の人間であるか考えたならば……そうしてソンナ種類の人間が、このような真夜中の別荘地帯に無暗《むやみ》に来るものか来ないものかを、その時にチョット考えてみただけでも、彼の一生涯の幸運を取返す筈であったのに……。
もう五十を越していながら、まだ部長にもなり得ないでいる睦田巡査は、こうして巡廻を続けながら、これぞという功績も過失もなかった平々凡々の彼の巡査生涯を、何度くり返して考え直したか、わからないのであった。何か事件が起るたんびに、こんな仕事は自分に向かないと思ってビクビクしながらも、ただ病身の妻と、大勢の子供が可愛いばっかりに、思い切って辞職もし得ないで来た彼の運命のみじめさを幾度涙ぐんだか知れないのであった。
だから最近に栄転した前署長のお情けで、東京郊外の平和な別荘地になっている、このK村の駐在所に廻わされると、受持区域に住んでいる知名の人々からの附届けで、やっと息が吐《つ》けるようになった事をドレ位、感謝していたことか。その巡廻の一足一足|毎《ごと》に……この地域に事なかれかし……とドンナに誠意を籠めて祈ったことか。そうして又、それが泥棒一つ捕《つか》まえた経験のない無能な彼の、心中からの……ただ一筋の悲しい願いでなければならぬ事を、彼自身に何度、自覚したことか。
しかし睦田巡査はまだ二十歩と行かないうちに、タッタ今踏み付けた奇妙な吸殻の事をキレイに忘れてしまっていた。まん丸い背中を一層丸くして、外套の頭巾を深々と引下して、薄暗い角燈の光りの中に、どこまでもどこまでも続くコンクリート壁や、煉瓦塀や、生垣の間をトボトボと歩いて行った。
寒い寒い星の夜《よ》であった。
その翌《あく》る朝であった。
彼が踏み躙《にじ》って行った幸運が、ソレだけの悪運となって彼の頭上に落ちかかって来たのは……。
彼の受持区域内でも、屈指の富豪と眼指《めざ》されている倉川男爵家の別邸に二人組の強盗が入って、若い、美しい夫人と小間使を絞殺し、一人の書生に重傷を負わせ、夫人所有の貴金属、宝石類と、現金二百余円を奪い取って逃走した事が、夜明けまで震えていた台所女中によって、分署まで報告された。そうしてその兇行の推定時刻が、彼の巡廻時刻とピッタリ一致したのであった。
電話で「巡廻中異状はなかったか」と尋ねられた時に、何の気もなく「ハイ」と答えた彼は、すぐにK駐在所から一里ばかりを距《へだ》たったK分署に呼び付けられて、居残っていた法学士の分署長から、眼の玉の飛び出るほど叱責されなければならなかった。そうして、
「見舞に行くには及ばぬ。君のような人間が現場《げんじょう》に立会ったとて役に立つものじゃない。留守をして電話でも聞いていたまえ」
と小使の面前で罵倒されたのであった。
署長以下の全員が出動したあとで、ガランとした室《へや》の真中の大火鉢に椅子を寄せて屈《かが》まり込んだ睦田巡査は、その青ざめた顔に幾度も幾度も涙を流した。そうして電話がかかるたんびに水洟《みずっぱな》をススリ上げススリ上げ立
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