上っていたが、その電話を本署に取次いでいるうちに……遭難した倉川家の若い男爵は、旧友の某国大使を神戸に出迎えに行った留守中であったこと……犯人はドチラも黒装束に覆面をした専門の強盗らしかったこと……倉川家の裏手のコンクリート塀を乗越える時に、電話線を切断していたこと……バンガロー風の二階の窓|硝子《ガラス》を切って螺旋《ねじ》止めを外して忍び入ったこと……夫人と小間使は眠ったままの位置で絞殺されていたこと……重傷を負わされた書生が間もなく死亡したこと……物置に隠れて震えていた台所女中が、夜の明けるのを待って、お隣りから分署に電話をかけたこと……そのほかは一切不明……といったような事実が判明して来た。
 彼は非常召集を受けた巡査たちが、自宅から直接に現場へ行く姿を、真白な霜の野原と一所《いっしょ》に思い浮かべた。そうしてそんな連中が、無能な自分を怨んだり、冷笑している顔付きまで想像してみた。それから事件が万一迷宮に入った場合に、当然自分に落ちかかって来るであろう運命に就《つ》いて、くり返しくり返し考えてみたが、しかし、それはイクラ考え直しても、わかり切った事であった。
 睦田巡査はポケットから鉈豆煙管《なたまめぎせる》を出して粉煙草《こなたばこ》を一服吸い付けた。思い諦らめた投げ遣りのような気持でフーッと煙を吹くうちに、思わず噎《む》せかえってゴホンゴホンと咳《せき》をしたが、それにしてもこの際|呉々《くれぐれ》も残念なことは、自分の受持区域でありながら、被害者の家《うち》に見舞に行けない事であった。
 いつも彼の老体に同情して、色々と問い慰めた上に「主人が留守勝ですから、どうぞよろしく」と云って十分の心付をしてくれた、あの美しい奥さんの霊前に、誰よりも先に駈け付けて、心からのお詫びの黙祷が捧げたかった。そうして出来ることならば新しい手がかりの一つか半分でいい、心安い台所女中の口からなりと引き出して署長の機嫌を取直したい……当座の不面目を取繕《とりつくろ》いたいと、暫くの間そればっかりを気にして考え直していたが、しかし、それとても今となっては力及ばない事であった。
 彼はこうして誰を怨む力もなくなった彼自身の姿を、灰になりかけた火鉢の縁に発見したのであった。そうして彼の眼の底に蠢《うご》めくものは結局、瘠せ衰えた彼の妻と、その周囲《まわり》を飛びまわったり匐《は》いまわったりしている子供たちの姿ばかりになってしまった。
 彼はそうした幻影を見まいとしてシッカリと眼を閉じた。すると最前から溜まっていた生温《なまぬる》い泪《なみだ》がポタポタと火鉢の灰の中に落ちた。その一粒が消えかかった炭火の上に落ちたらしくチューチューと音を立てたが、その音を聞いているうちに又も新しい涙が湧出《わきだ》して来るのを、彼はドウする事も出来なかった。
 そんな事を考えまわしているうちにいつの間にか時間が経ったらしい。彼の背後の柱時計が夢のように一時を打つと間もなく、非常線に出ていた同僚の二三名がバタバタと帰って来た。
「……ああ……ねむいねむい……」
「いくら云うたて新米の署長は駄目じゃよ。第一非常線からして手遅れじゃないか。青年会なぞ出したって何の足しになるものか」
「まあそう云うなよ。お蔭で無駄骨折が助かるじゃないか」
「指紋もないそうですね」
「ウン、今頃は犯人《やつ》等、千里向うで昼寝してケツカルじゃろ。ハハン。うまくやりおった」
 そう云ううちに古参の彼が居ることに気が付くと、慌てて敬礼をしいしい帯剣を外したが、そのまま各自《めいめい》の椅子に就いてヒッソリと口を噤《つぐ》んでしまった。彼等は睦田巡査が最前署長から叱られた事を知っているらしかった。
 睦田巡査は、もう現場の模様を聞いて見る勇気さえ出なかった。ただ、無能の標本みたように、火鉢のふちに曝《さら》し物にされている自分自身を顧みて、力なくうなだれるばかりであった。

 それから、ちょうど満一年経った。
 睦田巡査は予想通り年度代りで首になったが、それでも貰えるものだけは貰ったので、それをたよりに色々と縁故を辿《たど》って運動した結果、二個月ばかり前から市外の製作工場の門衛に雇われていた。むろん俸給は安いし、夜勤もあるにはあったが、しかし殆んど門番と受付を兼ねたような単純な仕事であった上に、巡廻の区域が非常に狭かったので、肥満した睦田老人にとっては、却《かえ》って極楽のような気がしたのであった。
 彼は毎日正午の休憩時間になると、会社の事務室に来て、新聞の続きものを読むのが、何よりの楽しみになった。ビクビクと縮こまったまんま、何の華やかさもない生涯を送って来た彼は、その小説や講談の中に出て来る気の毒な、憐れな運命の持主に満腔《まんこう》の同情を寄せると同時に、そんな人々が正義の力によっ
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