大切そうに吸っているのであった。
睦田老人は思い出した。ちょうど一年前に巡廻したあの寒い真夜中の出来事を……。自分が踏み潰した金口煙草の吸いさしの形を……。そうして死んだ倉川夫人の白い、美しい笑顔を……。
睦田老人は、思わず椅子から腰を浮かしながら、黒い詰襟《つめえり》のフックをかけ直した。それは肥満した彼が、事件で出動する度毎《たびごと》にいつも繰返した昔の癖であったが……。
門衛の部屋から出て来る制服制帽の彼を見ると、ルンペンの中の二人は追い払われるのかと思ったらしく逃げ腰になった。しかし真中の鬚男だけは、なおも金口煙草に気を取られているらしく片眼をつぶって、唇を横すじかいにしいしいプカプカと紫色の煙を吸い味わっていた。
睦田老人は、わざとニコニコしながらその前に近付いて行った。今朝《けさ》、職工長から貰ったカメリヤの袋の中から三本を抜き出して、掌《てのひら》の上に載せながら……。
彼のそうした態度を見ると、三人のルンペンが急に帽子に手をかけてヒョコヒョコとお辞儀をした。
睦田老人は一世一代の名探偵になったような気持ちがした。心安そうに三人の間に並んで壁に倚《よ》りかかりながら、出来るだけ巡査口調を出さないようにして話しかけた。地面に投棄てられた金口の煙草を指しながら……。
「そんな金口は、どこから拾って来るかね」
「コレケ」
と鬚男は破れたゴム靴の片足で、その煙草を踏み付けながら答えた。
「これあ盛り場から拾《ひ》らって来《く》んだ。別荘町だら長《なげ》えのが落ちてるッテッケンド、俺《おら》、行ったコタネエ」
鬚男は腹からのルンペンらしく、彼等特有の突ッケンドンな早口で、彼等特有の階級を無視したルンペン語を使った。巡査時代に乞食を取調べた経験を持っている睦田老人でなかったら、到底聞き分けることが不可能であったろう。睦田老人は何となく胸の躍るのを禁ずる事が出来なかった。
「フーム。君たちの仲間で、わざわざ別荘地へ金口を拾いに行く者があるかね」
「居《い》ッコタ居《い》ッケンド、そんな奴等、テエゲ荒稼ぎダア。コットラ温柔《おとな》しいもんだ……ヘヘヘ……」
鬚男は黄色い健康な歯を剥出《むきだ》しながら、工場《こうば》の上の青空を凝視した。
睦田老人は強《し》いてニコニコ顔を作ろうと努力したが出来なかった。顔面の筋肉が剛《こ》わばってしまって、変な泣き顔みたようなものになってしまったことを意識した。
「フーン。荒稼ぎというと泥棒でもやるのかね」
「何だってすらア。本職に雇われて見張りでもすれあ十日ぐれ極楽ダア。トッ捕まってもブタ箱だカンナ」
「ウーム。中には本職に出世する者も居るだろうな」
「たまにゃ居るさ。去年まで一緒に稼いだタンシューなんざ、品川の女郎《アマッペ》引かして、神戸へ飛んだっチ位だ」
「……ナニ……何という……神戸へ……」
睦田老人の声が突然にシャガレたので、三人のルンペンたちが妙な顔をして振向いた。睦田老人は慌てて顔を撫でまわしたが、その時に自分の額がジットリと汗ばんでいるのに気が付いた。彼はわざとらしい咳払いを一つした。
「フムー。エライ出世をしたもんだな」
「ウン。野郎……元ッカラ本職だったかも知んねッテ皆《みんな》、左様《せい》云ってッケンド……いつも仕事をブッタクリやがった癖に挨拶もしねえで消《け》えちまった罰当《ばちあた》りだあ。今にキット捕まるにきまってら」
「フーン。ヒドイ奴だな、タンシューッて奴は……」
「丹六って奴でさ。捕まったら警察で半殺しにされるんでしょう……ネエ旦那……」
「……そ……そうとも限らないが、人を殺したら死刑になるだろう」
「ブルブル。真平《まっぴら》だ。危ねえ思いするより、この方が楽だあネエ旦那ア……」
「そうともそうとも。しかし……その男……丹六とかいう男は人を殺したのかね」
「……………」
鬚男は返事をしなかった。ビックリしたように眼をマン円《まる》く見開いて睦田老人の顔を見たが、忽ち首をキュッと縮めて、眼をシッカリと閉じて、長い舌を、ペロリと鬚の間から出した。……と思うと一瞬間にモトの表情に帰って眼を剥《む》き出しながら、
「エヘヘヘヘ……」
と卑《いや》しい笑い方をした。
そんな表情を見たことのない睦田老人は、思わずゾーッとさせられた。しかし一生懸命に注意力を緊張さしていたおかげで、その表情の意味だけは、わかり過ぎる位わかった。そうして吾《われ》知らずカーッと上気したまま、鬚男の笑い顔を穴の明《あ》く程、凝視したのであった。
それから十分と経たないうちにタッタ一通話の市外電話を受取った警視庁は俄然として極度の緊張振りを示した。
すぐに刑事を製作所に走らして、まだ日陽《ひなた》ボッコをしていたルンペンの鬚男を引致《いんち》すると同時
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