皆は森《しん》と静まり返ってしまった。私もナイフとフォークを置いてナプキンで口を拭いた。
 水夫長は非常に感情を害したらしかった。大きな、灰色の眼を剥き出して真蒼になりながら、船長を見下すようにソロソロと立ち上ったが、それを見上げた船長はイヨイヨ平気な顔になって冷笑を含んだ。
「……フフ……消毒も出来んからなあ……フフ……」
 そんな場面に慣れていた私は、今にもナイフか皿が飛ぶものと思ってコッソリ椅子を浮かしていた。しかし水夫長はジッと我慢した。毛ムクジャラの両の拳《こぶし》をワナワナと震わして、禿《は》げ上った額《ひたい》の左右に、太い青筋をモリモリと浮き上らせていたが、突然にクルリとビール樽を廻転さしたと思うと、モウ水夫部屋に通ずる入口の扉《ドア》に手をかけていた。
 その幅広い背中を船長はピタリと睨んだ。
「……オイ……どこへ行くんだ」
「……消毒しに行くんだ……」
 と水夫長は見向きもせずに怒鳴りながら、ガチャガチャと把手《ノッブ》を捻《ねじ》った。
「……馬鹿ッ……」
 と、底力のある声で船長が云った。腕を高やかに組みながら……。
「……俺の部下を海に投《ほう》り込むような真似をしやがったら……貴様もだぞ……」
 扉《ドア》の内側に半分隠れていた水夫長の巨大な尻がピタリと動かなくなった。そのまま背後《うしろ》向きにソロソロと引返して来ると、火の出るような一瞥《いちべつ》を船長にくれた……と思ううちにツカツカと自分の室《へや》に這入って轟然《ごうぜん》と扉《ドア》を閉めた。
 そのあとから二等運転手と機関長が勢よく駈け込んで行ったが、これは水夫長を慰撫するためだという事がすぐにわかった。だから私もそのアトから静かに這入って、運転手と機関長の背中越しにジッと様子を聞いてみると、水夫長が激昂するのには、やはり相当の理由があった。
 そのチブスに罹《か》かった二人の水夫というのは、船長が最近に、新嘉坡《シンガポール》で拾い上げて、水夫長に押し付けたものであった。むろん船長の見込だけあって、腕は相当に立つし、温柔《おとな》しくもあったが、しかし、その陰気臭い、妙に気取った二人の姿を見た最初から、水夫長は何となく「虫が好かない」と思った。……というのは元来、新嘉坡《シンガポール》あたりで投げ出されている船員《ボーイ》に碌《ろく》なものが居よう筈がなかった。密航者《イ
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