、出帆間際まで船医が帰って来なかった。だからトウトウ待ち切れないで船を出したという話を、船に乗ると直ぐにボーイに聞かされた位である。
私はソンナ内幕を聞いているうちに、コイツは物騒な船に乗ったもんだと思った。しかし実をいうと私は、その水夫長の世話でこの船へ便乗して、ボルネオに密航するつもりだったので今更驚いても追っ付かなかった。
もっともソウいう私もまだ若かった。最近にヤンキーのインチキ野郎を一人、半殺しにしたのが八釜《やかま》しくなって、領事の顔を立てるために香港を飛び出した位の荒武者だったから、普通人程にビク付きはしなかった。殊に強慾な水夫長はシコタマ掴まされている関係上、私を特別の親友扱いにして、やたらにチヤホヤしてくれたのであったが、しかし、それでも私は、陸《おか》の上と海の上と、勝手が非常に違うことを知っていたので、停泊中の二三日ばかりは頗《すこぶ》る神妙にして、水夫長の室《へや》に小さくなっていた。
香港を出てから二日の間、コレダケの人間が皆揃って食堂に出た。つまり私を入れた都合六人の上級船員が、一番先に食事をするのであったが、阿片《アヘン》を積む船だけに相当|美味《うま》い物が喰えた。
食堂は水夫長の室《へや》の前に在った。別に広くもなく、綺麗という程でもなかったが、通風の工合《ぐあい》がよかった上に、馬鹿に贅沢で安全な石油ランプが一個、中央にブラ下がっていたから、その下で六人が、夜遅くまで、酒を飲みながらトラムプをやった。むろん手剛《てごわ》い相手は一人も居なかったが、新顔の私が交《まじ》っているので皆スバラシク気が乗っていた。おまけにワイシャツの背中にまで札束を落し込んでいた私は、出来るだけ景気よく負けたり勝ったりしてやったので、スッカリ英雄《ヒーロー》扱いにされてしまった。
ところが三日目の昼の食事が始まると間もなく、給仕の黒ん坊が眼の球《たま》をクルクルまわしながら重大な報告をした。水夫の中で二人病人が出来た。熱が非常に高くて苦悶しているというのであった。
背の高い、色の黒い船長は、静かにナイフを置きながら二人の水夫の名前を聞いた。それから左右に並ぶ五人の顔をズラリと見渡して、
「香港土産のチブスだ。助かるまいナ」
とつぶやいた。同時に……船医が居ない……という当惑の色をアリアリと顔にあらわしながら、水夫長の顔をジロリと見た。
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