霊感!
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)閑《ひま》つぶしに

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|先刻《さっき》の事でしたから、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「オルデスオル」は太字]
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     ――これは外国のお話――
「ゲーッ。ゲーッ。ガワガワガワガワガワ」
 という嘔吐の声が、玄関の方から聞えて来た……と思う間もなく看護婦が、
「……先生……先生……急患です……」
 と叫びながら薬局を出て来る気はいがした。ドクトル[#「ドクトル」は太字]、オルデスオル[#「オルデスオル」は太字]、パーポン[#「パーポン」は太字]は顔を上げた。夕食前の閑《ひま》つぶしに読んでいた小説を、太鼓腹の上に伏せて、片手で美事な禿げ頭をツルリと撫で上げながら、大きな欠伸《あくび》を一つした。
「アーッ。ウハフハフハフハフィット……と……何だろう一体……嘔きよるらしいが……まだ虎列剌《コレラ》の出る時候じゃないようだが……」
 こんな独言《ひとりごと》を云っているうちに患者はもう、看護婦の先に立って、診察室の入口まで来て立ち止まったが、その姿を見ると、流石《さすが》の老医パーポン[#「パーポン」は太字]氏も、思わず小説の読みさしを取り落して、肱掛椅子から立ち上った。
 その患者は苅り立ての頭をピッタリ二ツに分けて、仕立卸《したておろ》しのフロック[#「フロック」は太字]に縞ズボン[#「ズボン」は太字]という、リュウとした礼服姿をしていたが、どうしたものか、顔の色が瀬戸物のように真青で、眉が垂直に逆立って、血走った両眼が鼻の附け根の処へ一つになるほど引き付けられている。鼻から下は白いハンカチ[#「ハンカチ」は太字]でシッカリと押えられているので様子がわからないが、その形相の恐ろしさというものは、トテモ人間とは思えない。サタン[#「サタン」は太字]の死に顔か、メデュサ[#「メデュサ」は太字]の首かと思われる乱脈な青筋を顔一面に走り出さしたまま、手探りをするようにしてドクトル[#「ドクトル」は太字]の椅子の方へソロリソロリと近付いて来るのであった。
 椅子から立ち上ったパーポン[#「パーポン」は太字]氏は余りの恐ろしさに膝頭をガクガクと震わした。生命《いのち》あっての物種という恰好で、横の手術室の扉の方へ逃げ出そうとしたが、患者はヒンガラ眼のまま気が付いたらしく、片手をあげて制し止めたので、それも出来なくなった。そうして患者が無言のまま指し示すまにまに元の肱掛椅子の中へ、オッカナビックリ腰を卸させられたのであった。
 それを見ると患者は安心したらしかった。片手を幽霊のようにブラ下げたままフラフラとパーポン[#「パーポン」は太字]氏の前に蹌踉《よろ》めき寄って来て、心持ちだけお辞儀をするようにグラグラと頭を下げた。そうして鼻から下を蔽うたハンカチ[#「ハンカチ」は太字]を取り除《の》けて、恐ろしく大きく……河馬のようにアングリと開いた口を指して見せながら、何やら云いたげに眼を白黒さしていたが、忽ち、
「アウアウアウアウアウ……」
 と奇声を発したと思うと、又もはげしい嘔気《はきけ》に襲われたと見えて、
「ゲエゲエゲエ。ガワガワガワガワ」
 と夥《おびただ》しい騒音を立てた。口のまわりをハンカチ[#「ハンカチ」は太字]でシッカリと押え付けて、額から滝のように汗を流し初めるのであった。
 ドクトル[#「ドクトル」は太字]、パーポン[#「パーポン」は太字]氏はその顔を凝視したまま、一寸《ちょっと》の間呆気に取られていたが、間もなく訳がわかったと見えて、鼻の穴から長い呼吸を吐き出した。そうしてようよう血色を恢復した顔を平手でクルクルと撫でまわすと、腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハハハ。そうですかそうですか。やっとわかりました。貴方は顎を外されたのですね。……それで嘔気が付いたのですね」
 患者は懸命に苦しみながら何度も何度もうなずいた。ドクトル[#「ドクトル」は太字]も一所《いっしょ》にうなずいた。
「そうですかそうですか、アハハハハハ。イヤ……ビックリしましたよ。あなたのようにヒドイ嘔気が付いた方は初めて見たものですからね。アハアハアハアハ。イヤ。笑っては失礼でしたね。サア椅子に腰をお掛けなさい……サアどうぞ……」
 先刻から患者のうしろにポカンと突立っていた看護婦も、この時やっと安心したらしく、小さなタメ息をしいしい患者の尻に椅子を当てがった。
「サア。モットこっちへお寄りなさい。貴方はトテモ幸運な方ですよ。顎をはめる手術にかけては憚《はばか》りながらこの私は世界一の名人を以て自ら任じている者ですからね。……イヤ。冗談ではありません。タッタ今その証拠をお眼にかけます。私独特のステキな秘伝があるのですからね……サア。安心してモットこっちへお寄りなさい。ソウソウ……そうしてハンカチ[#「ハンカチ」は太字]をお取りなさい。……オイオイ……お前は何をボンヤリそこに突立っとるのか。……早くお客様に差し上げる紅茶を持って来んか。熱いのをすぐに持って来い。……それからお嗽《うが》いの水も……塩をすこし余計に入れてナ……エエカ……すぐに持って来るんだぞ」
 こう云って看護婦を叱り飛ばすと、ドクトル[#「ドクトル」は太字]は今までと打ってかわった得意満面の態度で、白い診察服を二ノ腕までマクリ上げた。患者のヌルヌルした涎《よだれ》だらけの唇の左右へ、拇指《おやゆび》を容赦なくグイグイと突込んで、左右の顎の骨を両手で力強く引っ掴んだが、そのまま患者のヒンガラ眼を覗き込むように睨み付けると、室中に響き渡るような大きな声で怒鳴り付けた。
「……あなたは何という馬鹿ですか。……立派な礼服を着ていながら、何だって顎を外すようなヘマな事をしたんです……エエッ……この大馬鹿野郎の、大間抜け奴《め》がアッ」
 患者はこれを聞くと血走った白眼をグルグルと回転さした。ビックリしたが上にもビックリしたらしく、青い顔を一層青くしてドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を睨み返しながら、物云いたげに舌の先を震わしたが、かの時遅くこの時早く、老ドクトル[#「ドクトル」は太字]が「ハッ」と気合いをかけながら、両手で掴んだ下顎を力一パイ突き上げたので……ガチーン……と音を立てて患者の奥歯がブツカリ合った。……と思うとその次の瞬間にはピッタリと閉まった口の上をハンカチ[#「ハンカチ」は太字]で蔽うた患者が、今にも気絶しそうに眼を閉じたまま、涙をポロポロと流していた。
「アハハハハ。どうです御気分は……もう嘔気はなくなったでしょう。誰でも顎を外すと、舌圧器で押え付けられたのと同様の作用を舌の根の筋肉に起して、多少の嘔気を催すものですがね。しかし貴方のように猛烈なのは珍らしいですよ……全く……ハッハッハッハッ……」
 こう云いながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]が室の隅で手を洗って帰って来ると、患者はやっと眼を開いて眼の前の空間を見まわした。そうして看護婦が持って来た塩水で恐る恐る含嗽《うがい》をして、すすめられるまにまに熱い紅茶を一杯飲み終ったが、やっと気が落ち付いたらしく、口の周囲を拭いまわしながらソロソロと顔を上げた。見ると最前の恐ろしい形相はあとかたもなくなっているばかりでなく、いかにも人なつっこそうな二十二三の美青年で、相当の教養を持っている事が一眼でわかる眼鼻立ちであったが、タッタ今老ドクトル[#「ドクトル」は太字]に罵倒された驚きが未だ消えぬかして、如何にも不思議そうに眼を瞭《みは》ったまま口をモゴモゴさせているのであった。その顔を見下しながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は大得意の体で椅子の上に反《そ》り返った。
「ハハハハ。イヤ。顎の外れたのは生命に別条はありませんが案外苦しいものでね。おまけに一度外れると又外れ易いものですから、これから余程気をお付けにならんと、いけませんよ。たとえば大きな欠伸をするとか、クシャミをするとかいう時には御注意をなさらんといけません。特に只今はドンナ原因でお外しになったものか存じませんが、この次に又、今度と同じような事をなさる時には特に御注意が必要ですよ。前に外れた時と同じ動作を顎にさせると、何の苦もなく外れる事が多いのですからナ……もっとも片手で、それとなく顎を押えておいでになれば大丈夫ですがね……ハハハ……ところで如何です……紅茶をもう一ツ……」
「……ハ……ハイ……」
 と青年はやっと頭を下げて返事をしかけたが、そのまま生唾液《なまつば》を嚥《の》み込むと、まだ口を利くのが怖いという風に舌なめずりをしいしいそこいらを見まわした。そうして室の中に誰も居ない事がわかると今一度、不思議そうにドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を見直しながら、オズオズと唇を動かした。
「……私は……もう二度と……コンナ眼に会って……顎を外そうとは思いませぬ」
「ハハア……成る程……それでは乱暴者にでもお会いになりましたので……」
「イヤそのようなノンキな事では御座いません」
「……では大きな欠伸でも……」
「イヤイヤ。欠伸でもクサメでも何でもありませぬ」
「ホホー。それは妙ですナ。今までの私の経験によりますと顎を外した原因というのは大抵欠伸か、クサメか、大笑いか、喧嘩なぞで、その以外にはラグビー[#「ラグビー」は太字]、拳闘、自動車、電車の衝突ぐらいに限られているのですが……そんな事でもないのですナ……成る程……してみると余程、特別な原因で顎をおはずしになったのですな……それでは……」
 青年は老ドクトル[#「ドクトル」は太字]からこんな風に問い詰められて来れば来る程、イヨイヨその驚ろきを増大させて行くらしかった。そうして終《しま》いには口を噤《つぐ》んだまま、眼をまん丸く瞠《みは》って相手の顔を凝視し初めたので、老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は又もクシャクシャと顔を撫でまわさなければならなくなった。
「いったいそれでは……ドンナ原因で顎をお外しになったので……」
 しかし青年は急に返事をしなかった。なおもマジマジと大きな瞬《また》たきを続けていたが、やがて何事かを警戒するように恐る恐る問い返した。
「……ヘエ……それじゃ先生は……今朝からの出来事をまだ御存じないので……」
「ハア……無論ドンナ事か存じませんが……第一貴方のお顔もタッタ今始めてお眼にかかったように思うのですが……」
「……ヘエ……それじゃ今朝の新聞に載っております私の写真も、まだ御覧になりませぬので……」
「ハア……無論見ませぬが……。元来私は新聞というものをこの十年ばかりというもの一度も見た事がないのです。この頃の新聞というものは、社会の腐敗堕落ばかりを報道しておりますので、古来の美風良俗が地を払って行くような感じを毎日受けさせられるのが不愉快ですからね。思い切って読まない事にしてしまったのです。ですから……」
「……チョットお待ち下さい」
 と青年は片手をあげて滔々《とうとう》と迸《ほとばし》りかけた老ドクトル[#「ドクトル」は太字]の雄弁を遮り止めた。
「……でも……人の噂にでもお聞きになりましたでしょう。近頃大評判の『名無し児裁判』というのを……」
「……ところがソンナ評判もまだ聞かないのです。……実を申しますと私は、留学中の伜《せがれ》が帰って来るまで、ホンノ看板つなぎに開業しておりますので、往診というものを一切やりませんからナ。世間の噂なぞが耳に這入《はい》る機会は極めて稀なのですが……」
「ヘエ――……それでは最前あなたが私をお叱りになって……「礼服を着ながら顎を外す、大馬鹿野郎の大間抜け」と仰言《おっしゃ》ったのは……アレはイッタイ……」
「アッハッハッハッ。あれですか。アッハッハッハッ」
 と老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は半分聞かないうちに吹き出した。腹を抱えて、反りかえって、シンから堪まらなそうに全身を揺すり上げて笑いつづけた。
「アッハッハッハッ。あれは何でもな
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