いですよ。ワッハッハッハッ」
 それを見ると青年は、もう不思議を通り越して気味が悪いという顔になった。そうして魘《おび》えたように唇をわななかしつつ切れ切れに云った。
「私は……あのお言葉を聞きました時に……それではもう……私の身の上はもとより……ツイ今さっき私の身の上に起った……前代未聞の怪事件までも御存じなのかと思って、胸に釘を打たれたように思ったのですが……私は、お言葉の通りの大馬鹿野郎の大間抜けだったのですから……」
「アハハハハ。イヤ。それはお気の毒でしたね。ハッハッハッ。私は何の気もなく云ったのですが……実を申しますとアレは私が顎をはめる秘伝になっておりますのでネ」
「ヘエ……患者をお叱りになるのが、顎をはめる秘伝……」
「そうなんです。要するに何でもないのですよ。すべて顎の外れた患者を癒《なお》すのに、患者が「今顎をはめられるナ」と思うと、思わず顎の筋肉を緊張させるものなのです。そうするとナカナカうまく這入りませんので、何かしら患者をビックリさせるような事を云って、顎の事を忘れさせた一瞬間にハッと気合いをかけて入れてしまうのです。これは尾籠《びろう》なお話ですが脱腸を押し込む時でも同様で、患者にお尻の事を気にかけるなと云っても、指が脱腸に触れると、ドウしてもお尻の穴の周囲に在る括約筋を引き締めるのです。ですから、トンチンカンなお天気の話なぞをしかけて、患者が変に思いながら窓の外を見たりしているうちに押し込むと、他愛もなくツルリと這入るのです。これは永年の経験から来た秘伝なので……決してあなたを罵倒した訳ではありませんから……どうぞ気を悪くなさらないで……」
「イヤ……そんな訳ではありませんが……」
 と云いながら青年は如何にも[#「如何にも」は底本では「如何に」]感心したらしく長い、ふるえた深呼吸をした。
「ヘエ――……成る程……それならば不思議は御座いませぬが……実は私が顎を外しましたのはツイこの向うの地方裁判所の法廷なので、しかもタッタ今|先刻《さっき》の事でしたから、もう、それがお耳に這入ったのかと思ってビックリしたのですが……」
「ヘエーッ」
 と今度はドクトル[#「ドクトル」は太字]がアベコベにビックリさせられたらしくグッと唾液《つば》を嚥み込んで眼を丸くした。
「……あの裁判所で……しかも法廷で顎を外されたのですか……」
 といううちに、如何にも好奇心に馳られたらしく身を乗り出した。すると青年も、何かしら急に気まりが悪くなったらしく、ハンカチ[#「ハンカチ」は太字]で顔を拭いまわしながらうなずいた。
「そうなんです……私は、私が関係しておりました長い間の訴訟事件が、今すこし前にヤットの事で確定すると同時に顎を外してしまったのです。……否……私ばかりではありません。恐らく世界中のどなたでも、私と同様の運命に立たれましたならば、顎を外さずにはいられないであろうと思われる出来事に出合ったので御座います」
「ハハア――ッ」
 とドクトル[#「ドクトル」は太字]はいよいよ面喰らった顔になった。小さな眼をパチパチさせながら身を乗り出して、椅子の端からズリ落ちそうになった。
「ヘエエエッ。それはイヨイヨ奇妙なお話ですナ。法廷といえば教会と同様に、この地上に於ける最も厳粛な、静かな処であるべき筈ですが……そんナ処で顎を外されるような場合があり得ますかナ」
「ありますとも……」
 と青年は断然たる口調で答えた。
「……この私が何よりの証拠です。……もっともこんな事は滅多にあるものではないと思いますが……」
「なるほど……それは後学のために是非ともお伺いしたいものですが……治療上の参考になるかも知れませんから……」
 青年は老ドクトル[#「ドクトル」は太字]からこう云われると、又も耳のつけ根まで真赤になって、さしうつむいてしまった。そうして上眼づかいにチラチラとドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を見上げたが、やがて悲し気に眼をしばたたいた。
「ハイ。私も実はこの事を先生にお話ししたいのです。そうして適当な御判断を仰《あお》ぎたいのですが……しかし……私がこの事を先生にお話した事が世間に洩れますと非常に困るのです。ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]家……彼女の家と、イグノラン[#「イグノラン」は太字]家……私の家の間に絡まるお恥かしい秘密の真相が、私の口から他に洩れた事がわかりますと……」
「イヤ……それは御心配御無用です。断じて御無用です」
 と云いながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は、いつの間にか昂奮してしまったらしく自烈度《じれった》そうに拳固を固めて両膝をトントンとたたいた。
「その御心配なら絶対に御無用に願いたいものです。患家の秘密を無暗《むやみ》に他所《よそ》で饒舌《しゃべ》るようでは医師の商売は立ち行きませんからね」
 青年はこれを聞くとようよう安心したらしかった。組んでいた腕をほどいて深呼吸を一つすると、ドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を正視しながらキッパリと云った。
「それではお話し申します。実は私が顎を外した原因というのはアンマリ呆れたからです」
「エエッ……呆れて……顎を外したと仰言るのですか」
「そうです。私は『呆れて物が言えない』という諺は度々聞いた事がありますが、呆れ過ぎて顎が外れるという事は夢にも知りませんでしたので、ツイうっかり外してしまったのです」
「ヘヘ――ッ。それは又どんなお話で……」
「ハイ。それはもう今になって考えますと、こうやって、お話しするさえ腹の立つくらい、馬鹿馬鹿しい事件なのですが……しかし先生は今、お忙がしいのじゃありませんか」
「イヤイヤ。私が忙がしいのは朝の間だけです。夕方は割合いに閑散ですからチットモ構いません」
「さようで……それではまあ、掻《か》い摘《つ》まんで概要だけお話しするとこうなんです」
 青年はここで看護婦が持って来た紅茶を一口|啜《すす》った。そうして、さも恥かしそうに耳を染めながら、うつむき勝ちにポツリポツリと話し出した。

       (1)[#「(1)」は縦中横]

 ……先生は何事も御存じないようですから最初から残らずお話し致しますが、最近この町で大評判になっている「名無し児裁判」という事件が御座います。
 その「名無し児裁判」というのは、全世界の裁判の歴史を引っくり返しても前例が一つもないという世にも恐ろしい、不可思議な事件なのですが、併《しか》し、この事件の女主人公のレミヤ[#「レミヤ」は太字]、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と申しますのは、何の恐ろしさも不思議さもない良家の令嬢で御座いまして、ただその姿と心が、あんまり女らしくて優し過ぎるのがこの事件の恐ろしさと不思議さを生み出す原因になっているのではないかと、考えれば考えられる位のことで御座います。
 レミヤ[#「レミヤ」は太字]の両親は御承知かも知れませんが、この町から十里ばかりの山奥に住んでおります素封家で、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と名乗る老夫婦の間に生まれた一人娘なので御座いますが、そうした世間の実例に洩れず、老夫婦のレミヤ[#「レミヤ」は太字]の可愛がりようというものは一通りや二通りでは御座いませんでした。人の噂によりますと、蝶よ花よは愚かな事、ゴムのお庭に水銀の池を湛えむばかり……出来る事ならイエス[#「イエス」は太字]様を家庭教師にしてマリヤ[#「マリヤ」は太字]様を保姆《ほぼ》にしたい位だったそうで、あらん限りの手を尽して育てました甲斐がありましたものか、レミヤ[#「レミヤ」は太字]はだんだんと生長するに連れて、実に絵にも筆にも描けない美しい姿と、指のさしようもない柔順な心を持った娘になって参りました。そうして、両親の大自慢の中に、十七の花の齢を重ねたのがチョウド一昨々年の事で御座いました。
 レミヤ[#「レミヤ」は太字]は実に、世にも比《たぐ》いのない天使の生れがわりで御座いました。その心も「否《ノー》」という言葉を知らないのかと思われるくらい柔和で、両親の言葉に反《そむ》いた事が生れて一度もないばかりでなく、女一通りの学問や、手仕事の勉強は申すも更らなり、毎朝、毎夜のお祈りや、あの固くるしい、長たらしい説教やお祈りをする天主教会への日曜|毎《ごと》の参詣を、物心ついてから一度も欠かした事がないので、年老いた僧正様から「娘のお手本」と賞め千切られる程の信心家で御座いました。
 ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]老夫婦の娘自慢が、それにつれて、親馬鹿式の有頂天にまで高まって行った事はお話し申し上げる迄も御座いますまい。毎日一着を占める優良馬でも、あれ程には大切にかけられまいと噂される位で御座いましたが、それにつきましても老夫婦が、自分達の老い先の短かい事が日に増しわかれば解かるほど……又はレミヤ[#「レミヤ」は太字]の評判が日を逐《お》うて高まれば高まるほど……出来るだけ早く良い婿を選んで、娘と財産を預けたい。安心して天国へ行きたいとあくがれ願います心も亦《また》、そうした世間の例に洩れませんでしたので、しかもレミヤ[#「レミヤ」は太字]の美しさと、その財産の大きさが世間並外れておりましただけに、そうした心配も世間並を外れていた訳で御座いましょう。まだレミヤ[#「レミヤ」は太字]が年頃にならぬ中から、八方に手をひろげて、及ぶ限りの手段をつくして探し廻わったのですが、サテ探すとなるとナカナカ思い通りに目付《めつ》からないのが一人娘の婿養子だそうです。……わけてもこの両親の註文というのは、あらん限りの贅沢を極めたもので、娘と同等以上の姿と心を持った男というのですから到底当世の世の中に見つかるものでは御座いますまい。第一、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]老夫婦が知っている限りの若い男で、レミヤ[#「レミヤ」は太字]嬢に恋文を贈らない者は一人も居ないというのですからやり切れませぬ。中には図々しくも直接行動に出て、花束を片手にハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]山荘の玄関に立ったために、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]老人からステッキ[#「ステッキ」は太字]を振り廻わされて、這々《ほうほう》の体で逃げ帰った者も尠《すくな》くないという有様で御座いました。
 ところがここに唯一人……否……タッタ二人だけ、レミヤ[#「レミヤ」は太字]嬢に花束も恋文も送らない青年がありました。それは老ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]氏の死んだ兄の息子たちで、レミヤ[#「レミヤ」は太字]の従兄《いとこ》に当るイグノラン[#「イグノラン」は太字]兄弟……すなわち私たち二人で御座いました。

       (2)[#「(2)」は縦中横]

 私たち兄弟は元来、従妹《いとこ》のレミヤ[#「レミヤ」は太字]と幼友達になっていた者でしたが、その後仔細がありまして、家族全部が都に出ると間もなく、流行病のために両親を喪《うしな》いまして私達兄弟は天涯の孤児となってしまいました。しかし僅かばかり残った財産がありましたから、それを便りにして仲よく勉強を続けておりますと、やっと一昨年の春、揃って商科大学の課程を終りましたので、直ぐに奉公口を探すべくこの町に遣って来たもので御座います。……ですから無論レミヤ[#「レミヤ」は太字]の評判は二人とも知り過ぎる位よく知っていたので御座いますが、それにも拘わらず二人が二人ともレミヤ[#「レミヤ」は太字]に手紙一本出さず、訪問もしなかった……という事につきましては世にも恐ろしい理由があったので御座います。
 ……と申しましただけではお解りになりますまいが……何をお隠し申しましょう。私共、アルマ[#「アルマ」は太字]、マチラ[#「マチラ」は太字]の兄弟は生まれ落ちるとからの双生児で、私の方が後から生まれましたために、今までの習慣に従って、仮りに兄貴と名乗っているにはいるので御座いますが、実は揃いも揃った瓜二つで、声から、眠る時間から、学校の成績から、ネクタイ[#「ネクタイ」は太字]の好みまで、
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