クトル[#「ドクトル」は太字]からこんな風に問い詰められて来れば来る程、イヨイヨその驚ろきを増大させて行くらしかった。そうして終《しま》いには口を噤《つぐ》んだまま、眼をまん丸く瞠《みは》って相手の顔を凝視し初めたので、老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は又もクシャクシャと顔を撫でまわさなければならなくなった。
「いったいそれでは……ドンナ原因で顎をお外しになったので……」
しかし青年は急に返事をしなかった。なおもマジマジと大きな瞬《また》たきを続けていたが、やがて何事かを警戒するように恐る恐る問い返した。
「……ヘエ……それじゃ先生は……今朝からの出来事をまだ御存じないので……」
「ハア……無論ドンナ事か存じませんが……第一貴方のお顔もタッタ今始めてお眼にかかったように思うのですが……」
「……ヘエ……それじゃ今朝の新聞に載っております私の写真も、まだ御覧になりませぬので……」
「ハア……無論見ませぬが……。元来私は新聞というものをこの十年ばかりというもの一度も見た事がないのです。この頃の新聞というものは、社会の腐敗堕落ばかりを報道しておりますので、古来の美風良俗が地を払って行くような感じを毎日受けさせられるのが不愉快ですからね。思い切って読まない事にしてしまったのです。ですから……」
「……チョットお待ち下さい」
と青年は片手をあげて滔々《とうとう》と迸《ほとばし》りかけた老ドクトル[#「ドクトル」は太字]の雄弁を遮り止めた。
「……でも……人の噂にでもお聞きになりましたでしょう。近頃大評判の『名無し児裁判』というのを……」
「……ところがソンナ評判もまだ聞かないのです。……実を申しますと私は、留学中の伜《せがれ》が帰って来るまで、ホンノ看板つなぎに開業しておりますので、往診というものを一切やりませんからナ。世間の噂なぞが耳に這入《はい》る機会は極めて稀なのですが……」
「ヘエ――……それでは最前あなたが私をお叱りになって……「礼服を着ながら顎を外す、大馬鹿野郎の大間抜け」と仰言《おっしゃ》ったのは……アレはイッタイ……」
「アッハッハッハッ。あれですか。アッハッハッハッ」
と老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は半分聞かないうちに吹き出した。腹を抱えて、反りかえって、シンから堪まらなそうに全身を揺すり上げて笑いつづけた。
「アッハッハッハッ。あれは何でもないですよ。ワッハッハッハッ」
それを見ると青年は、もう不思議を通り越して気味が悪いという顔になった。そうして魘《おび》えたように唇をわななかしつつ切れ切れに云った。
「私は……あのお言葉を聞きました時に……それではもう……私の身の上はもとより……ツイ今さっき私の身の上に起った……前代未聞の怪事件までも御存じなのかと思って、胸に釘を打たれたように思ったのですが……私は、お言葉の通りの大馬鹿野郎の大間抜けだったのですから……」
「アハハハハ。イヤ。それはお気の毒でしたね。ハッハッハッ。私は何の気もなく云ったのですが……実を申しますとアレは私が顎をはめる秘伝になっておりますのでネ」
「ヘエ……患者をお叱りになるのが、顎をはめる秘伝……」
「そうなんです。要するに何でもないのですよ。すべて顎の外れた患者を癒《なお》すのに、患者が「今顎をはめられるナ」と思うと、思わず顎の筋肉を緊張させるものなのです。そうするとナカナカうまく這入りませんので、何かしら患者をビックリさせるような事を云って、顎の事を忘れさせた一瞬間にハッと気合いをかけて入れてしまうのです。これは尾籠《びろう》なお話ですが脱腸を押し込む時でも同様で、患者にお尻の事を気にかけるなと云っても、指が脱腸に触れると、ドウしてもお尻の穴の周囲に在る括約筋を引き締めるのです。ですから、トンチンカンなお天気の話なぞをしかけて、患者が変に思いながら窓の外を見たりしているうちに押し込むと、他愛もなくツルリと這入るのです。これは永年の経験から来た秘伝なので……決してあなたを罵倒した訳ではありませんから……どうぞ気を悪くなさらないで……」
「イヤ……そんな訳ではありませんが……」
と云いながら青年は如何にも[#「如何にも」は底本では「如何に」]感心したらしく長い、ふるえた深呼吸をした。
「ヘエ――……成る程……それならば不思議は御座いませぬが……実は私が顎を外しましたのはツイこの向うの地方裁判所の法廷なので、しかもタッタ今|先刻《さっき》の事でしたから、もう、それがお耳に這入ったのかと思ってビックリしたのですが……」
「ヘエーッ」
と今度はドクトル[#「ドクトル」は太字]がアベコベにビックリさせられたらしくグッと唾液《つば》を嚥み込んで眼を丸くした。
「……あの裁判所で……しかも法廷で顎を外されたのですか……」
といううちに、如
前へ
次へ
全14ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング