何にも好奇心に馳られたらしく身を乗り出した。すると青年も、何かしら急に気まりが悪くなったらしく、ハンカチ[#「ハンカチ」は太字]で顔を拭いまわしながらうなずいた。
「そうなんです……私は、私が関係しておりました長い間の訴訟事件が、今すこし前にヤットの事で確定すると同時に顎を外してしまったのです。……否……私ばかりではありません。恐らく世界中のどなたでも、私と同様の運命に立たれましたならば、顎を外さずにはいられないであろうと思われる出来事に出合ったので御座います」
「ハハア――ッ」
とドクトル[#「ドクトル」は太字]はいよいよ面喰らった顔になった。小さな眼をパチパチさせながら身を乗り出して、椅子の端からズリ落ちそうになった。
「ヘエエエッ。それはイヨイヨ奇妙なお話ですナ。法廷といえば教会と同様に、この地上に於ける最も厳粛な、静かな処であるべき筈ですが……そんナ処で顎を外されるような場合があり得ますかナ」
「ありますとも……」
と青年は断然たる口調で答えた。
「……この私が何よりの証拠です。……もっともこんな事は滅多にあるものではないと思いますが……」
「なるほど……それは後学のために是非ともお伺いしたいものですが……治療上の参考になるかも知れませんから……」
青年は老ドクトル[#「ドクトル」は太字]からこう云われると、又も耳のつけ根まで真赤になって、さしうつむいてしまった。そうして上眼づかいにチラチラとドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を見上げたが、やがて悲し気に眼をしばたたいた。
「ハイ。私も実はこの事を先生にお話ししたいのです。そうして適当な御判断を仰《あお》ぎたいのですが……しかし……私がこの事を先生にお話した事が世間に洩れますと非常に困るのです。ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]家……彼女の家と、イグノラン[#「イグノラン」は太字]家……私の家の間に絡まるお恥かしい秘密の真相が、私の口から他に洩れた事がわかりますと……」
「イヤ……それは御心配御無用です。断じて御無用です」
と云いながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は、いつの間にか昂奮してしまったらしく自烈度《じれった》そうに拳固を固めて両膝をトントンとたたいた。
「その御心配なら絶対に御無用に願いたいものです。患家の秘密を無暗《むやみ》に他所《よそ》で饒舌《しゃべ》るようでは医師の商売は立ち行きませんからね」
青年はこれを聞くとようよう安心したらしかった。組んでいた腕をほどいて深呼吸を一つすると、ドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を正視しながらキッパリと云った。
「それではお話し申します。実は私が顎を外した原因というのはアンマリ呆れたからです」
「エエッ……呆れて……顎を外したと仰言るのですか」
「そうです。私は『呆れて物が言えない』という諺は度々聞いた事がありますが、呆れ過ぎて顎が外れるという事は夢にも知りませんでしたので、ツイうっかり外してしまったのです」
「ヘヘ――ッ。それは又どんなお話で……」
「ハイ。それはもう今になって考えますと、こうやって、お話しするさえ腹の立つくらい、馬鹿馬鹿しい事件なのですが……しかし先生は今、お忙がしいのじゃありませんか」
「イヤイヤ。私が忙がしいのは朝の間だけです。夕方は割合いに閑散ですからチットモ構いません」
「さようで……それではまあ、掻《か》い摘《つ》まんで概要だけお話しするとこうなんです」
青年はここで看護婦が持って来た紅茶を一口|啜《すす》った。そうして、さも恥かしそうに耳を染めながら、うつむき勝ちにポツリポツリと話し出した。
(1)[#「(1)」は縦中横]
……先生は何事も御存じないようですから最初から残らずお話し致しますが、最近この町で大評判になっている「名無し児裁判」という事件が御座います。
その「名無し児裁判」というのは、全世界の裁判の歴史を引っくり返しても前例が一つもないという世にも恐ろしい、不可思議な事件なのですが、併《しか》し、この事件の女主人公のレミヤ[#「レミヤ」は太字]、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と申しますのは、何の恐ろしさも不思議さもない良家の令嬢で御座いまして、ただその姿と心が、あんまり女らしくて優し過ぎるのがこの事件の恐ろしさと不思議さを生み出す原因になっているのではないかと、考えれば考えられる位のことで御座います。
レミヤ[#「レミヤ」は太字]の両親は御承知かも知れませんが、この町から十里ばかりの山奥に住んでおります素封家で、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と名乗る老夫婦の間に生まれた一人娘なので御座いますが、そうした世間の実例に洩れず、老夫婦のレミヤ[#「レミヤ」は太字]の可愛がりようというものは一通りや二通りでは御座い
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