にかけます。私独特のステキな秘伝があるのですからね……サア。安心してモットこっちへお寄りなさい。ソウソウ……そうしてハンカチ[#「ハンカチ」は太字]をお取りなさい。……オイオイ……お前は何をボンヤリそこに突立っとるのか。……早くお客様に差し上げる紅茶を持って来んか。熱いのをすぐに持って来い。……それからお嗽《うが》いの水も……塩をすこし余計に入れてナ……エエカ……すぐに持って来るんだぞ」
こう云って看護婦を叱り飛ばすと、ドクトル[#「ドクトル」は太字]は今までと打ってかわった得意満面の態度で、白い診察服を二ノ腕までマクリ上げた。患者のヌルヌルした涎《よだれ》だらけの唇の左右へ、拇指《おやゆび》を容赦なくグイグイと突込んで、左右の顎の骨を両手で力強く引っ掴んだが、そのまま患者のヒンガラ眼を覗き込むように睨み付けると、室中に響き渡るような大きな声で怒鳴り付けた。
「……あなたは何という馬鹿ですか。……立派な礼服を着ていながら、何だって顎を外すようなヘマな事をしたんです……エエッ……この大馬鹿野郎の、大間抜け奴《め》がアッ」
患者はこれを聞くと血走った白眼をグルグルと回転さした。ビックリしたが上にもビックリしたらしく、青い顔を一層青くしてドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を睨み返しながら、物云いたげに舌の先を震わしたが、かの時遅くこの時早く、老ドクトル[#「ドクトル」は太字]が「ハッ」と気合いをかけながら、両手で掴んだ下顎を力一パイ突き上げたので……ガチーン……と音を立てて患者の奥歯がブツカリ合った。……と思うとその次の瞬間にはピッタリと閉まった口の上をハンカチ[#「ハンカチ」は太字]で蔽うた患者が、今にも気絶しそうに眼を閉じたまま、涙をポロポロと流していた。
「アハハハハ。どうです御気分は……もう嘔気はなくなったでしょう。誰でも顎を外すと、舌圧器で押え付けられたのと同様の作用を舌の根の筋肉に起して、多少の嘔気を催すものですがね。しかし貴方のように猛烈なのは珍らしいですよ……全く……ハッハッハッハッ……」
こう云いながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]が室の隅で手を洗って帰って来ると、患者はやっと眼を開いて眼の前の空間を見まわした。そうして看護婦が持って来た塩水で恐る恐る含嗽《うがい》をして、すすめられるまにまに熱い紅茶を一杯飲み終ったが、やっと気が落ち付いたらしく、口の周囲を拭いまわしながらソロソロと顔を上げた。見ると最前の恐ろしい形相はあとかたもなくなっているばかりでなく、いかにも人なつっこそうな二十二三の美青年で、相当の教養を持っている事が一眼でわかる眼鼻立ちであったが、タッタ今老ドクトル[#「ドクトル」は太字]に罵倒された驚きが未だ消えぬかして、如何にも不思議そうに眼を瞭《みは》ったまま口をモゴモゴさせているのであった。その顔を見下しながら老ドクトル[#「ドクトル」は太字]は大得意の体で椅子の上に反《そ》り返った。
「ハハハハ。イヤ。顎の外れたのは生命に別条はありませんが案外苦しいものでね。おまけに一度外れると又外れ易いものですから、これから余程気をお付けにならんと、いけませんよ。たとえば大きな欠伸をするとか、クシャミをするとかいう時には御注意をなさらんといけません。特に只今はドンナ原因でお外しになったものか存じませんが、この次に又、今度と同じような事をなさる時には特に御注意が必要ですよ。前に外れた時と同じ動作を顎にさせると、何の苦もなく外れる事が多いのですからナ……もっとも片手で、それとなく顎を押えておいでになれば大丈夫ですがね……ハハハ……ところで如何です……紅茶をもう一ツ……」
「……ハ……ハイ……」
と青年はやっと頭を下げて返事をしかけたが、そのまま生唾液《なまつば》を嚥《の》み込むと、まだ口を利くのが怖いという風に舌なめずりをしいしいそこいらを見まわした。そうして室の中に誰も居ない事がわかると今一度、不思議そうにドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を見直しながら、オズオズと唇を動かした。
「……私は……もう二度と……コンナ眼に会って……顎を外そうとは思いませぬ」
「ハハア……成る程……それでは乱暴者にでもお会いになりましたので……」
「イヤそのようなノンキな事では御座いません」
「……では大きな欠伸でも……」
「イヤイヤ。欠伸でもクサメでも何でもありませぬ」
「ホホー。それは妙ですナ。今までの私の経験によりますと顎を外した原因というのは大抵欠伸か、クサメか、大笑いか、喧嘩なぞで、その以外にはラグビー[#「ラグビー」は太字]、拳闘、自動車、電車の衝突ぐらいに限られているのですが……そんな事でもないのですナ……成る程……してみると余程、特別な原因で顎をおはずしになったのですな……それでは……」
青年は老ド
前へ
次へ
全14ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング