立ち行きませんからね」
青年はこれを聞くとようよう安心したらしかった。組んでいた腕をほどいて深呼吸を一つすると、ドクトル[#「ドクトル」は太字]の顔を正視しながらキッパリと云った。
「それではお話し申します。実は私が顎を外した原因というのはアンマリ呆れたからです」
「エエッ……呆れて……顎を外したと仰言るのですか」
「そうです。私は『呆れて物が言えない』という諺は度々聞いた事がありますが、呆れ過ぎて顎が外れるという事は夢にも知りませんでしたので、ツイうっかり外してしまったのです」
「ヘヘ――ッ。それは又どんなお話で……」
「ハイ。それはもう今になって考えますと、こうやって、お話しするさえ腹の立つくらい、馬鹿馬鹿しい事件なのですが……しかし先生は今、お忙がしいのじゃありませんか」
「イヤイヤ。私が忙がしいのは朝の間だけです。夕方は割合いに閑散ですからチットモ構いません」
「さようで……それではまあ、掻《か》い摘《つ》まんで概要だけお話しするとこうなんです」
青年はここで看護婦が持って来た紅茶を一口|啜《すす》った。そうして、さも恥かしそうに耳を染めながら、うつむき勝ちにポツリポツリと話し出した。
(1)[#「(1)」は縦中横]
……先生は何事も御存じないようですから最初から残らずお話し致しますが、最近この町で大評判になっている「名無し児裁判」という事件が御座います。
その「名無し児裁判」というのは、全世界の裁判の歴史を引っくり返しても前例が一つもないという世にも恐ろしい、不可思議な事件なのですが、併《しか》し、この事件の女主人公のレミヤ[#「レミヤ」は太字]、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と申しますのは、何の恐ろしさも不思議さもない良家の令嬢で御座いまして、ただその姿と心が、あんまり女らしくて優し過ぎるのがこの事件の恐ろしさと不思議さを生み出す原因になっているのではないかと、考えれば考えられる位のことで御座います。
レミヤ[#「レミヤ」は太字]の両親は御承知かも知れませんが、この町から十里ばかりの山奥に住んでおります素封家で、ハルスカイン[#「ハルスカイン」は太字]と名乗る老夫婦の間に生まれた一人娘なので御座いますが、そうした世間の実例に洩れず、老夫婦のレミヤ[#「レミヤ」は太字]の可愛がりようというものは一通りや二通りでは御座い
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