貸家」と書いた新しい半紙が斜めに貼ってありました。露子さんの家は、ゆうべ三太郎君が睡っているうちに、どこかへ引っ越してしまったらしいのです。
露子さんと三太郎君が初めて顔を見合ったのは、今年の春の初めでした。それは露子さんの一家が引き移って来てから間もない或る日の事でしたが、その時には、今貸家札を貼ってあるあたりの二階の障子を何気なく開いて、欄干《らんかん》からこちらの庭を見下した露子さんの視線と、座敷の障子を一パイに開いたまま勉強していた三太郎君の視線とが、ホンの一秒の何分の一かのうちにチョットためらいながらスレ違っただけでした。露子さんは、そのまま冷やかな態度で眼を伏せて障子を閉めながら引っこんで行きましたし、あとを見送った三太郎君も静かに立ち上って障子を立て切ってしまったのです。
それから後、きのうまで数箇月の間、露子さんと三太郎君は毎日のように顔を合わせておりました。お互いに恋を感じていることを、よく知り合っていながら、お互いにわざとヨソヨソしくしている事を同時に感じながら……ウッカリ視線でも合うと、慌てて眼を外《そ》らして、逃げるように家の中へ引っ込んでしまうのでした。二
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