き出したか……それから、どんなに正体もなく泣き濡《ぬ》れつつ線路の上をよろめいて、山の中の一軒屋へ帰って行ったか……そうして自分の家《うち》に帰り着くや否や、箪笥《たんす》の上に飾ってある妻子の位牌《いはい》の前に這《は》いずりまわり、転がりまわりつつ、どんなに大きな声をあげて泣き崩れたか……心ゆくまで泣いては詫《わ》び、あやまっては慟哭《どうこく》したか……。そうして暫《しばら》くしてからヤット正気付いた彼が、見る人も、聞く人も無い一軒屋の中で、そうしている自分の恰好の見っともなさを、気付き過ぎる程気付きながらも、ちっとも恥かしいと思わなかったばかりでなく、もっともっと自分を恥かしめ、苛《さい》なみ苦しめてくれ……というように、白木《しらき》の位牌を二つながら抱き締めて、どんなに頬《ほお》ずりをして、接吻《せっぷん》しつつ、あこがれ歎いたことか……。
「……おお……キセ子……キセ子……俺が悪かった。重々悪かった。堪忍《かんにん》……堪忍してくれ……おおっ。太郎……太郎太郎。お父さんが……お父さんが悪かった。モウ……もう決して、お父さんは線路を通りません……通りません。……カ……堪忍して……堪忍して下さアアア――イ……」
 と声の涸《か》れるほど繰返し繰返し叫び続けたことか……。

 彼は依然として枯木林の間の霜《しも》の線路を渡りつづけながら、その時の自分の姿をマザマザと眼の前に凝視した。その瞼《まぶた》の内側が自《おの》ずと熱くなって、何ともいえない息苦しい塊《かた》まりが、咽喉《のど》の奥から、鼻の穴の奥の方へギクギクとコミ上げて来るのを自覚しながら……。
「……アッハッハ……」
 と不意に足の下で笑う声がしたので、彼は飛び上らむばかりに驚いた。思わず二三歩走り出しながらギックリと立ち佇《ど》まって、汗ばんだ額《ひたい》を撫《な》で上げつつ線路の前後を大急ぎで見まわしたが、勿論、そこいらに人間が寝ている筈は無かった。薄霜を帯びた枕木と濡《ぬ》れたレールの連続が、やはり白い霜を冠《かぶ》った礫《こいし》の大群の上に重なり合っているばかりであった。
 彼の左右には相も変らぬ枯木林が、奥もわからぬ程立ち並んで、黄色く光る曇り日の下に灰色の梢《こずえ》を煙らせていた。そうしてその間をモウすこし行くと、見晴らしのいい高い線路に出る白い標識柱《レベル》の前にピッタリと立佇《たちど》まっている彼自身を発見したのであった。
「……シマッタ……」
 と彼はその時口の中でつぶやいた。……あれだけ位牌《いはい》の前で誓ったのに……済まない事をした……と心の中で思っても見た。けれども最早《もはや》取返しの付かない処まで来ている事に気が付くと、シッカリと奥歯を噛《か》み締めて眼を閉じた。
 それから彼は又も、片手をソッと額に当てながら今一度、背後《うしろ》を振り返ってみた。ここまで伝って来た線路の光景と、今まで考え続けて来た事柄を、逆にさかのぼって考え出そうと努力した。あれだけ真剣に誓い固めた約束を、それから一年近くも過ぎ去った今朝《けさ》に限って、こんなに訳もなく破ってしまったそのそもそもの発端の動機を思い出そうと焦燥《あせ》ったが、しかし、それはモウ十年も昔の事のように彼の記憶から遠ざかっていて、どこをドンナ風に歩いて来たか……いつの間に帽子を後ろ向きに冠《かぶ》り換えたか……鞄を右手に持ち直したかという事すら考え出すことが出来なかった。ただズット以前の習慣通りに、鞄を持ち換え持ち換え線路を伝って、ここまで来たに違い無い事が推測されるだけであった。…………しかしその代りに、たった今ダシヌケに足の下で笑ったものの正体が彼自身にわかりかけたように思ったので、自分の背後《うしろ》の枕木の一つ一つを念を入れて踏み付けながら引返し初めた。すると間もなく彼の立佇《たちど》まっていた処から四五本目の、古い枕木の一方が、彼の体重を支えかねてグイグイと砂利《ざり》の中へ傾き込んだ。その拍子に他の一端が持ち上って軌条の下縁とスレ合いながら……ガガガ……と音を立てたのであった。
 彼はその音を聞くと同時に、タッタ今の笑い声の正体がわかったので、ホッと安心して溜息《ためいき》を吐《つ》いた。それにつれて気が弛《ゆる》んだらしく、頭の毛が一本一本ザワザワザワとして、身体《からだ》中にゾヨゾヨと鳥肌が出来かかったが、彼はそれを打消すように肩を強くゆすり上げた。黒い鞄を二三度左右に持ち換えて、切れるように冷《つ》めたくなった耳朶《みみたぼ》をコスリまわした。それから鼻息の露《つゆ》に濡《ぬ》れた胡麻塩髯《ごましおひげ》を撫《な》でまわして、歪《ゆが》みかけた釣鐘マントの襟《えり》をゆすり直すと、又も、スタスタと学校の方へ線路を伝い初めた。いつも踏切の近くで出会う下りの石炭列車が、モウ来る時分だと思い思い、何度も何度も背後《うしろ》を振り返りながら……。

 彼は、それから間もなく、今までの悲しい思出《おもいで》からキレイに切り離されて、好きな数学の事ばかりを考えながら歩いていた。彼自身にとって最も幸福な、数学ずくめの冥想《めいそう》の中へグングンと深入りして行った。
 彼の眼には、彼の足の下に後から後から現われて来る線路の枕木の間ごとに変化して行く礫石《バラス》の群れの特徴が、ずっと前に研究しかけたまま忘れかけている函数論や、プロバビリチーの証明そのもののように見えて来た。彼は又、枕木と軌条が擦れ合った振動が、人間の笑い声に聞こえて来るまでの錯覚作用を、数理的に説明すべく、しきりに考え廻わしてみた。それは何の不思議もない簡単な出来事で、考えるさえ馬鹿馬鹿しい事実であったが、しかしその簡単な枕木の振動の音波が人間の鼓膜に伝わって、脳髄に反射されて、全身の神経に伝わって、肌を粟立《あわだ》たせるまでの経路を考えて来ると、最早《もはや》、数理的な頭ではカイモク見当の付けようの無い神秘作用みたようなものになって行くのが、重ね重ね腹が立って仕様がなかった。人間が機関車に正面すると、ちょうど蛇《へび》に魅入《みい》られた蛙《かえる》のように動けなくなって、そのまま、轢《ひ》き殺されてしまうのも、やはり脳髄の神秘作用に違い無いのだが……。一体脳髄の反射作用と、意識作用との間にはドンナ数理的な機構の区別が在るのだろう……。
 ……突然……彼の眼の前を白いものがスーッと横切ったので、彼は何の気もなく眼をあげてみた。……今頃白い蝶《ちょう》が居るか知らんと不思議に思いながら……けれどもそこいらには蝶々らしいものは愚か、白いものすら見えなかった。
 彼はその時に高い、見晴らしのいい線路の上に来ていた。
 彼の視線のはるか向うには、線路と一直線に並行して横たわっている国道と、その上に重なり合って並んでいる部落の家々が見えた。それは彼が昔から見慣れている風景に違い無いのであったが、今朝《けさ》はどうした事かその風景がソックリそのまんまに、数学の思索の中に浮き出て来る異常なフラッシュバックの感じに変化しているように思われた。その景色の中の家や、立木や、畠《はたけ》や、電柱が、数学の中に使われる文字や符号……[#ここから横組み]√,=,0,∞,KLM,XYZ,αβγ,θω,π[#ここで横組み終わり]……なんどに変化して、三角函数が展開されたように……高次方程式の根《こん》が求められた時の複雑な分数式のように……薄黄色い雲の下に神秘的なハレーションを起しつつ、涯《は》てしもなく輝やき並んでいた。形《かた》に表わす事の出来ないイマジナリー・ナンバーや、無理数や、循環《じゅんかん》少数なぞを数限りなく含んで……。
 彼は、彼を取巻く野山のすべてが、あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式にみちみちている事を直覚した。そうして、それ等《ら》のすべてが彼を無言のうちに嘲《あざけ》り、脅《おび》やかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリとうなだれて歩き出した。そうしてそのような非数理的な環境に対して反抗するかのように彼は、ソロソロと考え初めたのであった。
 ……俺は小さい時から数学の天才であった。
 ……今もそのつもりでいる。
 ……だから教育家になったのだ。今の教育法に一大革命を起すべく……児童のアタマに隠れている数理的な天才を、社会に活《い》かして働かすべく……。
 ……しかし今の教育法では駄目だ。全く駄目なんだ。今の教育法は、すべての人間の特徴を殺してしまう教育法なんだ。数学だけ甲でいる事を許さない教育法なんだ。
 ……だから今までにドレ程の数学家が、自分の天才を発見し得ずに、闇から闇に葬《ほうむ》られ去ったことであろう。
 ……俺は今日まで黙々として、そうした教育法と戦って来た。そうして幾多の数学家の卵を地上に孵化《ふか》させて来た。
 ……太郎もその卵の一つであった。
 ……温柔《おとな》しい、無口な優良児であった太郎は、俺が教えてやるまにまに、彼独特の数理的な天才をスクスクと伸ばして行った。もう代数や幾何の初等程度を理解していたばかりでなく、自分で LOG を作る事さえ出来た。……彼が自分で貯《た》めたバットの銀紙で球を作りながら、時々その重量と直径とを比較して行くうちに、直径の三乗と重量とが正比例して増加して行く事を、方眼紙にドットして行った点の軌跡《きせき》の曲線から発見し得た時の喜びようは、今でもこの眼に縋《こび》り付いている。眼を細くして、頬《ほっ》ペタを真赤にして、低い鼻をピクピクさせて、偉大なオデコを光らしているその横顔……。
 ……けれども俺は太郎に命じて、そうした数理的才能を決して他人の前で発表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が膨《ふく》れ面《つら》をするにきまっていたから……。
 ……視学官ぐらいに何がわかるものか。彼奴等《きゃつら》は教育家じゃない。タダの事務員に過ぎないのだ。
 ……ネエ。太郎、そうじゃないか。
 ……彼奴《やつら》の数学は、生徒職員の数と、夏冬の休暇に支給される鉄道割引券の請求歩合と、自分の月給の勘定ぐらいにしか役に立たないのだ。ハハハ……。
 ……ネエ。太郎……。
 ……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。
 ……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。
 ……だけども……だけども……。
 ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。

 ……だけども……だけども……。
 というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を揃《そろ》えてしまったのであった。ピッタリと運転を休止した脳髄の空虚を眼球のうしろ側でジイッと凝視しながら……。
 それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨《ずがいこつ》の空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁《ほうよう》した、薄暗い静寂であった。どうにも動きの取れなくなった自我意識の、底知れぬ休止であった。どう考えようとしても考えることの出来ない……。
 彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには瞼《まぶた》がチクチクするくらい、まん丸く眼の球《たま》を剥《む》き出して行ったが、そのうちにその瞳の上の方から、ウッスリと白い光線がさし込んで来ると、それに連れて眼の前がだんだん明るくなって来た。
 彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に塗《まみ》れた砂利の群れが並んでいた。
 そこは太郎が轢《ひ》かれた場所に違い無いのであった。
 彼は徐《おもむ》ろに眼をあげて、彼の横に突立っているシグナルの白い柱を仰いだ。黒線の這入《はい》った白い横
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