太郎が時々担当の教師に残されて、採点の手伝いをさせられる事があるので……ソンナ時は成るたけ連れ立って帰ろうね……と約束していた事までも思い出した彼は、どうする事も出来ないタマラナイ面目なさに縛られつつ、辛《かろ》うじて阿弥陀《あみだ》になった帽子を引直しただけであった。
「……オトウサーアアーンン……降りて行きましょうかアア……」
 という中《うち》に太郎は堤の上をズンズンこちらの方へ引返《ひきかえ》して来た。
「イヤ……俺が登って行く……」
 狼狽《ろうばい》した彼はシャガレた声でこう叫ぶと、一足飛びに線路の横の溝を飛び越えて、重たい鞄を抱え直した。四十五度以上の急斜面に植え付けられた芝草の上を、一生懸命に攀《よ》じ登り初めたのであった。
 それは労働に慣れない彼にとっては実に死ぬ程の苦しい体験であった。振返るさえ恐しい三|丈《じょう》あまりの急斜面を、足首の固い兵隊靴の爪先《つまさき》と、片手の力を便りにして匐《は》い登って行くうちに、彼は早くも膝頭《ひざがしら》がガクガクになる程疲れてしまった。崖《がけ》の中途に乱生した冷《つ》めたい草の株を掴《つか》むたんびに、右手の指先の感覚がズンズン消え失せて行くのを彼は自覚した。反対に彼の顔は流るる汗と水洟《みずばな》に汚れ噎《む》せて、呼吸《いき》が詰まりそうになるのを、どうする事も出来ないながらに、彼は子供の手前を考えて、大急ぎに斜面を登るべく、息も吐《つ》かれぬ努力を続けなければならなかった。
 ……これは子供に唾《つば》を吐いた罰《ばち》だ。子供に禁じた事を、親が犯した報いだ。だからコンナ責苦《せめく》に遭《あ》うのだ……。
 といったような、切ない、情ない、息苦しい考えで一杯になりながら、上を見る暇もなく斜面に縋《すが》り付いて行くうちに、疲れ切ってブラブラになった足首が、兵隊靴を踏み返して、全身が草のようにブラ下がったままキリキリと廻転しかけた事が二三度あった。その瞬間に彼は、眼も遥かな下の線路に大の字|形《なり》にタタキ付けられている彼自身の死骸を見下したかのように、魂のドン底までも縮み上らせられたのであったが、それでもなお死物狂《しにものぐる》いの努力で踏みこたえつつ大切な鞄を抱え直さなければならなかった。
「あぶない。お父さん……お父さアン……」
 と叫ぶ太郎の声を、すぐ頭の上で聞きながら……。
 ……堤《どて》の上に登ったら、直ぐに太郎を抱き締めてやろう。気の済むまで謝罪《あやま》ってやろう……。そうして家《うち》に帰ったら、妻の位牌《いはい》の前でモウ一度あやまってやろう……。
 そう思い詰め思い詰め急斜面の地獄を匐《は》い登って来た彼は……しかし……平たい、固い、砂利《ざり》だらけの国道の上に吾児《わがこ》と並んで立つと、もうソンナ元気は愚かなこと、口を利く力さえ尽き果てていることに気が付いた。薄い西日を前にして大浪を打つ動悸《どうき》と呼吸の嵐の中にあらゆる意識力がバラバラになって、グルグルと渦巻いて吹き散らされて行くのをジイーッと凝視《みつ》めて佇《たたず》んでいるうちに、眼の前の薄黄色い光りの中で、無数の灰色の斑点《はんてん》がユラユラチラチラと明滅するのを感じていた。それからヤット気を取り直して、太郎に鞄を渡しながら、幽霊のようにヒョロヒョロと歩き出した時の心細かったこと……。そのうちに全身を濡《ぬ》れ流れた汗が冷え切ってしまって、タマラナイ悪寒《おかん》がゾクゾクと背筋を這《は》いまわり初めた時の情なかったこと……。

 彼は山の中の一軒屋に帰ると、何もかも太郎に投げ任せたまま直ぐに床を取って寝た。そうしてその晩から彼は四十度以上の高い熱を出して重態の肺炎に喘《あえ》ぎつつ、夢うつつの幾日かを送らなければならなかった。
 彼はその夢うつつの何日目かに、眼の色を変えて駈《か》け付けて来た同僚の橋本訓導の顔付を記憶していた。その後から駈け付けて来た巡査や、医者や、村長さんや、区長さんや、近い界隈《かいわい》の百姓たちの只事《ただごと》ならぬ緊張した表情を不思議なほどハッキリ記憶していた。のみならずそれが太郎の死を知らせに来た人々で……。
「コンナ大層な病人に、屍体を見せてええか悪いか」
「知らせたら病気に障《さわ》りはせんか」
 といったような事を、土間の暗い処でヒソヒソと相談している事実や何かまでも、慥《たし》かに察しているにはいた。けれども彼は別に驚きも悲しみもしなかった。おおかたそれは彼の意識が高熱のために朦朧《もうろう》状態に陥っていたせいであろう。ただ夢のように……。
 ……そうかなあ……太郎は死んだのかなあ……俺も一所にあの世へ行くのかなあ……。
 と思いつつ、別に悲しいという気もしないまま、生ぬるい涙をあとからあとから流しているばかりであった。
 それからもう一つその翌《あく》る日のこと……かどうかよくわからないが、ウッスリ眼を醒《さ》ました彼は囁《ささ》やくような声で話し合っている女の声をツイ枕元の近くで聞いた。ちょうどラムプの芯《しん》が極度に小さくして在ったので、そこが自分の家であったかどうかすら判然《はっきり》しなかったが、多分介抱のために付添っていた、近くの部落のお神さん達か何かであったろう。
「……ホンニまあ。坊ちゃんは、ちょうどあの堀割のまん中の信号の下でなあ……」
「……マアなあ……お父さんの病気が気にかかったかしてなあ……先生に隠れて鉄道づたいに近道さっしやったもんじゃろうて皆云い御座《ござ》るげなが……」
「……まあ。可愛《かあい》そうになあ……。あの雨風の中になあ……」
「それでなあ。とうとう坊ちゃんの顔はお父さんに見せずに火葬してしまうたて、なあ……」
「……何という、むごい事かいなあ……」
「そんでなあ……先生が寝付かっしゃってから、このかた毎日坊ちゃんに御飯をば喰べさせよった学校の小使いの婆《ばあ》さんがなあ。代られるもんなら代ろうがて云うてなあ。自分の孫が死んだばしのごと歎《なげ》いてなあ……」
 あとはスッスッという啜《すす》り泣きの声が聞こえるばかりであったが、彼はそれでも別段に気に止めなかった。そうした言葉の意味を考える力も無いままに又もうとうとしかけたのであった。
「橋本先生も云うて御座ったけんどなあ。お父さんもモウこのまま死んで終《しま》わっしゃった方が幸福《しやわせ》かも知れんち云うてなあ……」
 といったようなボソボソ話を聞くともなく耳に止めながら……自分が死んだ報《しら》せを聞いて、口をアングリと開いたまま、眼をパチパチさせている人々の顔と、向い合って微笑しながら……。
 けれどもそのうちに、さしもの大熱が奇蹟的に引いてしまうと、彼は一時、放神状態に陥ってしまった。和尚《おしょう》さんがお経を読みに来ても知らん顔をして縁側に腰をかけていたり、妻の生家から見舞いのために配達させていた豆乳《とうにゅう》を一本も飲まなかったりしていたが、それでも学校に出る事だけは忘れなかったと見えて、体力が出て来ると間もなく、何の予告もしないまま、黒い鞄を抱え込んでコツコツと登校し初めたのであった。
 教員室の連中は皆驚いた。見違えるほど窶《やつ》れ果てた顔に、著しく白髪《しらが》の殖えた無精髯《ぶしょうひげ》を蓬々《ぼうぼう》と生やした彼の相好《そうごう》を振り返りつつ、互いに眼と眼を見交《みかわ》した。その中にも同僚の橋本訓導は、真先《まっさき》に椅子《いす》から離れて駈け寄って来て、彼の肩に両手をかけながら声を潤《うる》ませた。
「……ど……どうしたんだ君は。……シシ……シッカリしてくれ給《たま》え……」
 眼をしばたたきながら、椅子から立ち上った校長も、その横合いから彼に近付いて来た。
「……どうか充分に休んでくれ給え。吾々《われわれ》や父兄は勿論のこと、学務課でも皆、非常に同情しているのだから……」
 と赤ん坊を諭《さと》すように背中を撫《な》でまわしたのであったが、しかし、そんな親切や同情が彼には、ちっとも通じないらしかった。ただ分厚い近眼鏡の下から、白い眼でジロリと教室の内部《なか》を見廻わしただけで、そのまま自分の椅子に腰を卸《おろ》すと、彼の補欠をしていた末席の教員を招き寄せて学科の引継《ひきつぎ》を受けた。そうして乞食のように見窄《みすぼ》らしくなった先生の姿に驚いている生徒たちに向って、ポツポツと講義を初めたのであった。
 それから午後になって教員室の連中から、
「無理もない」
 というような眼付きで見送られながら校門を出るとそのまま右に曲って、生徒たちが見送っているのも構わずにサッサと線路を伝い初めたのであった。……又も以前の通りの思出《おもいで》を繰返しつつ、……自分の帰りを待っているであろう妻子の姿を、木《こ》の間《ま》隠れの一軒屋の中に描き出しつつ……。
 彼はそれから後、来る日も来る日もそうした昔の習慣を判で捺《お》したように繰返し初めたのであったが、しかしその中にはタッタ一つ以前と違っている事があった。それは学校を出てから間もない堀割の中程に立っている白いシグナルの下まで来ると、おきまりのようにチョット立止まって見る事であった。
 彼はそうしてそこいらをジロジロと見廻しながら、吾児《わがこ》の轢《ひ》かれた遺跡らしいものを探し出そうとするつもりらしかったが、既に幾度も幾度も雨風に洗い流された後なので、そんな形跡はどこにも発見される筈が無かった。
 しかし、それでも彼は毎日毎日、そんな事を繰り返す器械か何ぞのように、おんなじ処に立ち佇《ど》まって、くり返しくり返しおんなじ処を見まわしたので、そこいらに横たわっている数本の枕木の木目や節穴、砂利の一粒一粒の重なり合い、又はその近まわりに生えている芝草や、野茨《のいばら》の枝ぶりまでも、家に帰って寝る時に、夜具の中でアリアリと思い出し得るほど明確に記憶してしまった。そうして彼はドンナニ外《ほか》の考えで夢中になっている時でも、シグナルの下のそのあたりへ来ると、殆《ほと》んど無意識に立佇《たちど》まって、そこいらを一渡り見まわした後でなければ、一歩も先へ進めないようにスッカリ癖づけられてしまったのであった……何故《なぜ》そこに立佇まっているのか、自分自身でも解らないままに、暗い暗い、淋《さび》しい淋しい気持ちになって、狃染《なじ》みの深い石ころの形や、枕木の切口の恰好《かっこう》や、軌条の継目の間隔を、一つ一つにジーッと見守らなければ気が済まないのであった……………………。
「お父さん」
 というハッキリした声が聞こえたのは、ちょうど彼がそうしている時であった。
 彼はその声を聞くや否や、電気に打たれたようにハッと首を縮めた。無意識のうちに眼をシッカリと閉じながら、肩をすぼめて固くなったが、やがて又、静かに眼を見開いて、オズオズと左手の高い処を見上げた。寂《さび》しい霜枯《しもが》れの草に蔽《おお》われた赤土の斜面と、その上に立っている小さな、黒い人影を予想しながら……。
 ところが現在、彼の眼の前に展開している堀割の内側は、そんな予想と丸で違った光景をあらわしていた。見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、涯《は》てしもなく群がり輝やき、流れ漾《ただよ》い、乱れ咲いていた。線路の向うの自分の家を包む山の斜面の中程には、散り残った山桜が白々と重なり合っていた。朗《うら》らかに晴れ静まった青空には、洋紅色《ローズマダー》の幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀《ひばり》の声や、頬白《ほおじろ》の声さえも和《なご》やかであった。
 ……その中のどこにも吾児《わがこ》らしい声は聞こえない……どこの物蔭にも太郎らしい姿は発見されない……全く意外千万な眩《ま》ぶしさと、華やかさに満ち満ちた世界のまん中に、昔のまんまの見窄《みすぼ》らしい彼自身の姿を、タッタ一つポツネンと発見した彼……。
 ……彼がその時に、どんなに奇妙な声を立てて泣
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング