木が、四十五度近く傾いている上に、ピカピカと張り詰められている鋼鉄色の青空を仰いだ。そうして今一度、吾児《わがこ》の血を吸い込んだであろう足の下の、砂利の間の薄暗がりを、一つ一つに覗《のぞ》き込みつつ凝視した。その砂利の間の薄暗がりから、頭だけ出している小さな犬蓼《いぬたで》の、血よりも紅《あか》い茎の折れ曲りを一心に見下していた。
……だけども……だけども……。
という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を抱擁《ほうよう》しつつ、彼の頭の上に圧《の》しかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立《ふきた》てていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを、夢うつつのように意識しながら……。
……だけども……だけども……。
と考えながら彼は自分の額《ひたい》を、右手でシッカリと押え付けてみた。
……だけども……だけども……。
……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、忰《せがれ》が轢《ひ》き殺されたのも……それからタッタ今まで考え続けて来た色々な事も、みんな頭を悪るくしている俺の幻覚に過ぎないのじゃないか知らん。神経衰弱から湧《わ》き出した、一種のあられもないイリュージョンじゃないかしらん……。
……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。
……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん非道《ひど》くなって来たために、自己暗示の力が無暗《むやみ》に高まって来たお蔭でコンナみじめな事ばかり妄想するようになって来たのだ。
……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。
……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。
……アハハハハハハ……。
……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に囚《とら》われていると俺はキチガイになるかも知れないぞ……。
……アハ……アハ……アハ……。
彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、思いがけない背後から、突然非常な力で……グワーン……とドヤシ付けられたように感じた。そうしてタッタ今、凝視していた砂利《バラス》の上に、何の苦もなく突き倒されたように思ったが、その瞬間に彼は真黒な車輪の音も無い廻転と、その間に重なり合って閃《ひら》めき飛ぶ赤い光明《こうみょう》のダンダラ縞《じま》を認めた。……と思ううちに後頭部がチクチク痛み初めて、眼の前がグングン暗くなって来たので、二三度大きく瞬《まばたき》をしてみた。
……お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん……。
と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで泌《し》み渡ったと思うと、そのままフッツリと消えてしまったが、しかし彼はその声を聞くと、スッカリ安心したかのように眼を閉じて、投げ出した両手の間の砂利の中にガックリと顔を埋めた。そうしてその顔を、すこしばかり横に向けながらニッコリと白い歯を見せた。
「……ナアーンダ。お前だったのか……アハ……アハ……アハ……」
底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
※「気持」「気持ち」の不統一は底本のママとした。「初め」は「始め」が正しいと思われるが、これも底本のママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:柳沢成雄
2001年4月19日公開
2006年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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