…………………」
ハッと気が付いてみると彼は、その日もいつの間にか平生《へいぜい》の習慣通りに、線路伝いに来ていて、ちょうど長い長い堀割の真中《まんなか》あたりに近い枕木の上に立佇《たちど》まっているのであった。彼のすぐ横には白ペンキ塗《ぬり》の信号柱が、白地《しろじ》に黒線の這入《はい》った横木を傾けて、下り列車が近付いている事を暗示していたが、しかし人影らしいものはどこにも見当らなかった。ただ彼のみすぼらしい姿を左右から挟んだ、高い高い堀割の上半分に、傾いた冬の日がアカアカと照り映《は》えているその又上に、鋼鉄色の澄み切った空がズーッと線路の向うの、山の向う側まで傾き蔽《おお》うているばかりであった。
そんなような景色を見まわしているうちに彼は、ゆくりなくも彼の子供時代からの体験を思い出していた。
……もしや今のは自分の魂が、自分を呼んだのではあるまいか。……お父さん……と呼んだように思ったのは、自分の聞き違いではなかったろうか……。
といったような考えを一瞬間、頭の中に廻転させながら、キョロキョロとそこいらを見まわしていた。……が、やがてその視線がフッと左手の堀割の高い高い一角に止まると、彼は又もハッとばかり固くなってしまった。
彼の頭の上を遥かに圧して切り立っている堀割の西側には、更にモウ一段高く、国道沿いの堤《どて》があった。その堤の上に最前から突立って見下していたらしい小さな、黒い人影が見えたが、彼の顔がその方向に向き直ると間もなく、その小さい影はモウ一度、一生懸命の甲高《かんだか》い声で呼びかけた。
「……お父さアーん……」
その声の反響がまだ消えないうちに彼は、カンニングを発見された生徒のように真赤になってしまった。……線路を歩いてはいけないよ……と云い聞かせた自分の言葉を一瞬間に思い出しつつ、わななく指先でバットの吸いさしを抓《つま》み捨てた。そうして返事の声を咽喉《のど》に詰まらせつつ、辛《かろ》うじて顔だけ笑って見せていると、そのうちに、又も甲高い声が上から落ちて来た。
「お父さアン。きょうはねえ。残って先生のお手伝いして来たんですよオ――。書取りの点をつけてねえ……いたんですよオ――……」
彼はヤットの思いで少しばかりうなずいた。そうして吾児《わがこ》が入学以来ズット引続いて級長をしていることを、今更ながら気が付いた。同時にその太郎が時々担当の教師に残されて、採点の手伝いをさせられる事があるので……ソンナ時は成るたけ連れ立って帰ろうね……と約束していた事までも思い出した彼は、どうする事も出来ないタマラナイ面目なさに縛られつつ、辛《かろ》うじて阿弥陀《あみだ》になった帽子を引直しただけであった。
「……オトウサーアアーンン……降りて行きましょうかアア……」
という中《うち》に太郎は堤の上をズンズンこちらの方へ引返《ひきかえ》して来た。
「イヤ……俺が登って行く……」
狼狽《ろうばい》した彼はシャガレた声でこう叫ぶと、一足飛びに線路の横の溝を飛び越えて、重たい鞄を抱え直した。四十五度以上の急斜面に植え付けられた芝草の上を、一生懸命に攀《よ》じ登り初めたのであった。
それは労働に慣れない彼にとっては実に死ぬ程の苦しい体験であった。振返るさえ恐しい三|丈《じょう》あまりの急斜面を、足首の固い兵隊靴の爪先《つまさき》と、片手の力を便りにして匐《は》い登って行くうちに、彼は早くも膝頭《ひざがしら》がガクガクになる程疲れてしまった。崖《がけ》の中途に乱生した冷《つ》めたい草の株を掴《つか》むたんびに、右手の指先の感覚がズンズン消え失せて行くのを彼は自覚した。反対に彼の顔は流るる汗と水洟《みずばな》に汚れ噎《む》せて、呼吸《いき》が詰まりそうになるのを、どうする事も出来ないながらに、彼は子供の手前を考えて、大急ぎに斜面を登るべく、息も吐《つ》かれぬ努力を続けなければならなかった。
……これは子供に唾《つば》を吐いた罰《ばち》だ。子供に禁じた事を、親が犯した報いだ。だからコンナ責苦《せめく》に遭《あ》うのだ……。
といったような、切ない、情ない、息苦しい考えで一杯になりながら、上を見る暇もなく斜面に縋《すが》り付いて行くうちに、疲れ切ってブラブラになった足首が、兵隊靴を踏み返して、全身が草のようにブラ下がったままキリキリと廻転しかけた事が二三度あった。その瞬間に彼は、眼も遥かな下の線路に大の字|形《なり》にタタキ付けられている彼自身の死骸を見下したかのように、魂のドン底までも縮み上らせられたのであったが、それでもなお死物狂《しにものぐる》いの努力で踏みこたえつつ大切な鞄を抱え直さなければならなかった。
「あぶない。お父さん……お父さアン……」
と叫ぶ太郎の声を、すぐ頭の上で聞きながら……。
…
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