木魂
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)立ち佇《ど》まって

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|勺《しゃく》ばかり

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「俺はきょうこそ間違いなく汽車に轢き殺されるのだぞ」に傍点]
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 ……俺はどうしてコンナ処に立ち佇《ど》まっているのだろう……踏切線路の中央《まんなか》に突立って、自分の足下をボンヤリ見詰めているのだろう……汽車が来たら轢《ひ》き殺されるかも知れないのに……。
 そう気が付くと同時に彼は、今にも汽車に轢かれそうな不吉な予感を、背中一面にゾクゾクと感じた。霜《しも》で真白になっている軌条の左右をキョロキョロと見まわした。それから度の強い近眼鏡の視線を今一度自分の足下に落すと、霜混《しもまじ》りの泥と、枯葉にまみれた兵隊靴で、半分腐りかかった踏切板をコツンコツンと蹴《け》ってみた。それから汗じみた教員の制帽を冠《かぶ》り直して、古ぼけた詰襟《つめえり》の上衣《うわぎ》の上から羊羹《ようかん》色の釣鐘マントを引っかけ直しながら、タッタ今通り抜けて来た枯木林の向うに透いて見える自分の家の亜鉛《トタン》屋根を振り返った。
 ……一体俺は、今の今まで何を考えていたのだろう……。
 彼はこの頃、持病の不眠症が嵩《こう》じた結果、頭が非常に悪《わ》るくなっている事を自覚していた。殊に昨日は正午過ぎから寒さがグングン締まって来て、トテモ眠れそうにないと思われたので、飲めもしない酒を買って来て、ホンの五|勺《しゃく》ばかり冷《ひや》のまま飲んで眠ったせいか、今朝《けさ》になってみると特別に頭がフラフラして、シクンシクンと痛むような重苦しさを脳髄の中心に感じているのであった。その頭を絞るように彼は、薄い眉《まゆ》をグット引寄せながら、爪先《つまさき》に粘《ねば》り付いている赤い泥を凝視《みつ》めた。
 ……おかしいぞ。今朝は俺の頭がヨッポドどうかしているらしいぞ……。
 ……俺は今朝、あの枯木林の中の亜鉛葺《トタンぶき》の一軒屋の中で、いつもの通りに自炊の後始末をして、野良《のら》犬が這入《はい》らないようにチャント戸締りをして、ここまで出かけて来たことは来たに相違ないのだが、しかし、それから今までの間じゅう、俺は何を考えていたのだろう。……何か知らトテモ重大な問題を一生懸命に考え詰めながら、ここまで来たような気もするが……おかしいな。今となってみるとその重大な問題の内容を一つも思い出せなくなっている……。
 ……おかしい……おかしい……。何にしても今朝はアタマが変テコだ。こんな調子では又、午後の時間に居眠りをして、無邪気な生徒たちに笑われるかも知れないぞ……。
 彼はそんな事を取越苦労しいしい上衣の内ポケットから大きな銀時計を出してみると、七時四十分キッカリになっていた。
 彼はその8の処に固まり合っている二本の針と、チッチッチッチッと廻転している秒針とを無意識にジーッと見比《みくら》べていた……が……やがて如何《いか》にも淋《さび》しそうな……自分自身を嘲《あざけ》るような微苦笑を、度の強い近眼鏡の下に痙攣《けいれん》させた。
 ……ナーンだ。馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。何でもないじゃないか。
 ……俺は今学校に出かける途中なんだ。……今朝は学課が初まる前に、調べ残しの教案を見ておかなければならないと思って、午後の時間の睡《ね》むいのを覚悟の前で、三十分ばかり早めに出て来たのだ。しかも学校まではまだ五|基米《キロ》以上あるのだから、愚図愚図《ぐずぐず》すると時間の余裕が無くなるかも知れない……だから俺はここに立佇《たちど》まって考えていたのだ。国道へ出て本通りを行こうか、それとも近道の線路伝いにしようかと迷いながら突立っていたものではないか……。
 ……ナーンだ。何でもないじゃないか……。
 ……そうだ。とにかく鉄道線路を行こう。線路を行けば学校まで一直線で、せいぜい三|基米《キロ》ぐらいしか無いのだから、こころもち急ぎさえすれば二十分ぐらいの節約は訳なく出来る……そうだ……鉄道線路を行こう……。
 彼はそう思い思い今一度ニンマリと青黒い、髯《ひげ》だらけの微苦笑をした。三角形に膨《ふく》らんだボクスの古鞄《ふるかばん》を、左手にシッカリと抱き締めながら、白い踏切板の上から半身を傾けて、やはり霜を被《かぶ》っている線路の枕木の上へ、兵隊靴の片足を踏み出しかけた。
 ……が……又、ハッと気が付いて踏み留《とど》まった。
 彼はそのまま右手をソット額《ひたい》に当てた。その掌《てのひら》で近眼鏡の上を蔽《おお》うて、何事かを祈るように、頭をガックリとうなだれた。
 彼は、彼自身がタッタ今、鉄道踏切の中央に立
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