自身の手で、彼のタッタ一人の愛児を惨死に陥れて、彼をホントウの独《ひとり》ポッチにしてしまうべく、不可抗的な運命を彼自身に編み出させて行った不可思議な或る力の作用を今一度、数学の解式のようにアリアリと展開し初めたのであった。
それは大寒中には珍らしく暖かい、お天気のいい午後のことであった。
彼は二三日前から風邪を引いていて、その日も朝から頭が重かったので、いつもの通り夕方近くまで居残って学校の仕事をする気がどうしても出なかった。だから放課後一時間ばかりも経《た》つと、やはり、何かの用事で居残っていた校長や同僚に挨拶《あいさつ》をしいしい、生徒の答案を一パイに詰めた黒い鞄を抱え直して、トボトボと校門を出たのであった。
ところで校門を出てポプラの並んだ広い道を左に曲ると、彼の住んでいる山懐《やまふところ》の傾斜の下まで、海岸伝いに大きな半円を描いた国道に出るのであったが、しかし、その国道を迂廻《うかい》して帰るのが、彼にとっては何よりも不愉快であった。……というのは距離が遠くなるばかりでなく、この頃《ごろ》著しく数を増した乗合《のりあい》自動車やトラック、又は海岸の別荘地に出這入《ではい》りする高級車の砂ホコリを後から後から浴びせられたり、又は彼を知っている教え子の親たちや何かに出会ってお辞儀をさせられるたんびに、彼の頭の中にフンダンに浮かんでいる数学的な瞑想《めいそう》を破られるのが、実にたまらない苦痛だからであった。
ところがこれに反して校門を出てから、草の間の狭い道をコッソリと右に曲ると、すぐに小さな杉森の中に這入って、その蔭に在る駅近くの踏切に出る事が出来た。そこから線路伝いに四五町ほど続いた高い堀割の間を通り抜けると、百分の一内外の傾斜線路《レベル》を殆《ほと》んど一直線に、自分の家の真下に在る枯木林の中の踏切まで行けるので、その途中の大部分は枯木林に蔽《おお》われてしまっていたから、誰にも見付かる気遣《きづか》いが無いのであった。
ところで又、彼はその校門の横の杉森を出て、線路の横の赤土道に足を踏み入れると同時に、はるか一里ばかり向うの山蔭に在る自分の家《うち》と、そこに待っているであろう妻子の事を思い出すのが習慣のようになっていた。その習慣は去年の正月に彼の妻が死んだ後までも、以前と同じように引続いていたのであったが、しかし彼は、その愚かな心の習慣を打消そうとは決してしなかった。むしろそれが自分だけに許された悲しい権利ででもあるかのように、ツイこの間《あいだ》まで立ち働らいていた妻の病み窶《やつ》れた姿や、現在、先に帰って待っているであろう吾児《わがこ》の元気のいい姿を、それからそれへと眼の前に彷彿《ほうふつ》させるのであった。山番小舎のトボトボと鳴る筧《かけひ》の前で、勝気な眼を光らして米を磨《と》いでいる妻の横顔や、自分の姿が枯木立の間から現われるのを待ちかねたように両手を差し上げて、
「オーイ。お父さーン」
と呼びかける頬《ほっ》ペタの赤い太郎の顔や、その太郎が汲込《くみこ》んで燃やし付けた孫風呂の煙が、山の斜面を切れ切れに這《は》い上って行く形なぞを、過去と現在と重ね合わせて頭の中に描き出すのであった。もっとも時折は、黒い風のような列車の轟音《ごうおん》を遣《や》り過したあとで、枕木の上に立ち止まって、バットの半分に火を点《つ》けながら、
……又きょうも、おんなじ事を考えているな。イクラ考えたって、おんなじ事を……。
と自分で自分の心を冷笑した事もあった。そうして四十を越してから妻を亡くした見窄《みすぼ》らしい自分自身の姿が、こころもち前屈《まえかが》みになって歩いて行く姿を、二三十|間《けん》向うの線路の上に、幻覚的に描き出しながらも……。
……もっともだ。もっともだ。そうした儚《はか》ない追憶に耽《ふけ》るのは、お前のために取残《とりのこ》されているタッタ一つの悲しい特権なのだ。お前以外に、お前のそうした痛々しい追憶を冷笑し得《う》る者がどこに居るのだ……。
と云いたいような、一種の憤慨に似た誇りをさえ感じつつ、眼の中を熱くする事もあった。そうして全国の小学児童に代数や幾何《きか》の面白さを習得さすべく、彼自身の貴い経験によって、心血を傾けて編纂《へんさん》しつつある「小学算術教科書」が思い通りに全国の津々浦々《つづうらうら》にまで普及した嬉しさや、さては又、県視学の眼の前で、複雑な高次方程式に属する四則雑題を見事に解いた教え子の無邪気な笑い顔なぞを思い出しつつ……云い知れぬ喜びや悲しみに交《かわ》る交《がわ》る満たされつつ、口にしたバットの火が消えたのも忘れて行く事が多いのであった。
「……オトウサン……」
という声をツイ耳の傍で聞いたように思ったのはソンナ時であった……。
「…
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