…堤《どて》の上に登ったら、直ぐに太郎を抱き締めてやろう。気の済むまで謝罪《あやま》ってやろう……。そうして家《うち》に帰ったら、妻の位牌《いはい》の前でモウ一度あやまってやろう……。
そう思い詰め思い詰め急斜面の地獄を匐《は》い登って来た彼は……しかし……平たい、固い、砂利《ざり》だらけの国道の上に吾児《わがこ》と並んで立つと、もうソンナ元気は愚かなこと、口を利く力さえ尽き果てていることに気が付いた。薄い西日を前にして大浪を打つ動悸《どうき》と呼吸の嵐の中にあらゆる意識力がバラバラになって、グルグルと渦巻いて吹き散らされて行くのをジイーッと凝視《みつ》めて佇《たたず》んでいるうちに、眼の前の薄黄色い光りの中で、無数の灰色の斑点《はんてん》がユラユラチラチラと明滅するのを感じていた。それからヤット気を取り直して、太郎に鞄を渡しながら、幽霊のようにヒョロヒョロと歩き出した時の心細かったこと……。そのうちに全身を濡《ぬ》れ流れた汗が冷え切ってしまって、タマラナイ悪寒《おかん》がゾクゾクと背筋を這《は》いまわり初めた時の情なかったこと……。
彼は山の中の一軒屋に帰ると、何もかも太郎に投げ任せたまま直ぐに床を取って寝た。そうしてその晩から彼は四十度以上の高い熱を出して重態の肺炎に喘《あえ》ぎつつ、夢うつつの幾日かを送らなければならなかった。
彼はその夢うつつの何日目かに、眼の色を変えて駈《か》け付けて来た同僚の橋本訓導の顔付を記憶していた。その後から駈け付けて来た巡査や、医者や、村長さんや、区長さんや、近い界隈《かいわい》の百姓たちの只事《ただごと》ならぬ緊張した表情を不思議なほどハッキリ記憶していた。のみならずそれが太郎の死を知らせに来た人々で……。
「コンナ大層な病人に、屍体を見せてええか悪いか」
「知らせたら病気に障《さわ》りはせんか」
といったような事を、土間の暗い処でヒソヒソと相談している事実や何かまでも、慥《たし》かに察しているにはいた。けれども彼は別に驚きも悲しみもしなかった。おおかたそれは彼の意識が高熱のために朦朧《もうろう》状態に陥っていたせいであろう。ただ夢のように……。
……そうかなあ……太郎は死んだのかなあ……俺も一所にあの世へ行くのかなあ……。
と思いつつ、別に悲しいという気もしないまま、生ぬるい涙をあとからあとから流しているばかりで
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