あった。
満月の愛嬌笑いは、いつの間にか淋しい、冷めたい笑顔に変っていた。二人の前で駒下駄を心持ち横に倒おして、土をはねかけるような恰好をしたと思うと、銀の鈴を振るようなスッキリとした声で、
「男の恥を知んなんし」
とタッタ一言。白い腮《あぎと》を三日月のように反向《そむ》けて、眉一つ動かさず。見返りもせずに、裲襠《うちかけ》の背中をクルリと見せながら、シャナリシャナリと人垣の間を遠ざかって行った。あとから続く三味太鼓の音。漂い残す蘭麝《らんじゃ》のかおり。
「……満月……満月……」
と囁やき交しながら雪崩《なだ》れ傾いて行く人雑沓《ひとごみ》の塵埃《ほこり》いきれ……。
その中《うち》に両手の穢《よご》れを払いながら立上った二人の顔は、もう人間の表情《かおつき》ではなかった。墓の下からこの世を呪いに出て来た屍鬼《しにん》の形相であった。血の気のない顔に生汗《なまあせ》を滴《したた》らせ、白い唇をわななかせつつ互いの顔を睨み合って、肩で呼吸《いき》をするばかりであった。
「……こ……これが見返さいでいられましょうか」
千六の両眼から涙がハラハラと溢れ落ちた。
「……こ……これ程の挨拶……か……刀の手前にも……捨てて……おかれぬわい。ええっ……」
銀之丞の美しい眼尻には涙どころか、血が鈍染《にじ》んでいた。二人は思わず互いの両手を固く握り合っていた。その手を銀之丞は烈しく打振った。
「……千六殿……約束しょう。……イ……今から丸一年目に……イ……今一度、ここで会おう。それまでに二人とも、あの金丸長者を見返すほどの金子《かね》をこしらえよう。二人の力を合わせても、あの売女奴《ばいため》を身請《みうけ》しよう」
千六は感激に溢るる涙を拭いもあえず首肯《うなず》いた。一層固く銀之丞の手を握り締めた。銀之丞は遥かに遠ざかった満月の傘を振りかえった。ギリギリと歯噛みをした。
「……やおれ……身請けした暁には、思い知らさいでおこうものか。ズタズタに切り苛《さいな》んで、青痰《あおたん》を吐きかけて、道傍《みちばた》に蹴り棄てても見せようものを……」
「シッ……お声が……」
二人はそのまま人ごみに紛れて左右に別れた。大空の満月が花の上にさしかかる頃であった。
銀之丞は東海道を江戸へ志した。
思い迫って約束した一年の短かい間に、どうしたら望み通りの金が稼げるかと……思案に暮るる一人旅。京外れで買うた尺八の歌口を嘗め嘗め破れ扇を差出しながら、宿場宿場の揚雲雀《あげひばり》を道連れに、江戸へ出るには出たものの、男振りよりほかに取柄のない柔弱武士とて、切取り強盗はもちろん叶《かな》わず。押借《おしが》り騙取《かたり》の度胸も持合わせず。賭博、相場の器用さなど、夢にも思い及ばぬまま、三日すれば止められぬ乞食根性をそのまま。京都とは似ても似付かぬ町人の気強さを恐れて、屋敷町や町外れの農家や小商人《こあきんど》の軒先をうろ付きまわり、一文二文の合力に、生命《いのち》をつなぐ心細さ。金儲けどころか立身どころか。派手な大小|印籠《いんろう》までも塩鰯と剥《は》げ印籠に取りかえる落ちぶれよう。稀《たま》には場末の色町らしい処で笠の中を覗き込んで馬糞《まぐそ》女郎や安|芸妓《げいしゃ》たちにムゴがられて、思わず収入《みいり》に有付いたり、そんな女どもの取なしで田舎大尽《いなかだいじん》に酒肴を御馳走され、一二番の戯れ小唄の御褒美に小袖、穿物、手拭なぞ貰うて帰る事もあり。そのほか役者衆に拾われかけたり、絵草子屋に売子を頼まれたりなぞ、色々な眼に出会うたものであったが、それでも女色にだけは決して近付かなかった。去る金持後家に見込まれて昼日中、引手茶屋に引上げられ、小謡いがまだ二三番と済まぬうちに脂切《あぶらぎ》った腕を首にさし廻わされた時なぞ、血相をかえて塩鰯をひねくりまわし、後退《あとしざ》りして逃げて来るという、世にも身固い、涙ぐましい月日が、いつの間《ま》にか夢のように流れて、早や笑うてくれる鬼もない来年の正月。約束の三月も程近い銀之丞が二十五の春となった。
こうなれば最早《もはや》、致し方もない。僅か一年の間に大金を作ろうなぞと約束したのがこっちの愚昧《おろか》であった。浮世の風に吹き晒《さら》されてみればわかる。やはり他人《ひと》の云う通りに世の中は、思うたほど甘いものではないらしい。
しかし約束は約束なれば是非に及ばぬ。満月の道中に間に合うように故郷へ帰らずばなるまい。播磨屋千六の顔を見ずばなるまい。千六は町人の事なれば、一年の間に一万両ぐらい儲けまいものでもない。もっとも町人の事なれば、そうなってみると、おのが身代が惜しゅうなって、気が摧《くじ》けていまいとは限らぬが、もしも、さような事になれば一文無しのこっちの方が、却《かえ》って確かなもの。否応《いやおう》なしに千六の尻を押《お》いて金輪際、満月を身請させいでおこうものか。もし又、万が一にも、その期《ご》に及んで満月が二人の切ない情《こころ》を酌《く》まず、売女《ばいた》らしい空文句を一言でも吐《ぬ》かしおって、吾儕《われら》を手玉に取りそうな気ぶりでも見せたなら最後の助。こっちは元より棄てた一生。一刀の下に切伏せて、この年月《としつき》の怨恨《うらみ》を晴《は》らいてくれるまでの事。所詮、それ位の役廻りにしか値打せぬ吾身の運命であったかも知れぬが……と、とつおいつ思案のうちに、旅支度という程の用意も要らぬ着のみ着のままの浪人姿。ブラリと立出づる吹晒《ふきさら》しの東海道。間道伝いに雪の箱根を越えて、下れば春近い駿河の海。富士の姿に満月の襟元を思い浮かめ、三保の松原に天女を抱き止めた伯竜《はくりゅう》の昔を羨み、駿府から岡部、藤枝を背後《うしろ》に、大井川の渡し賃に無《な》けなしの懐中《ふところ》をはたいて、山道づたいの東海道。菊川の宿場に程近く、後になり先になって行く馬士《まご》どものワヤク話を聞くともなく聞いて行くうちに、銀之丞はフト耳を引っ立てて、並んで曳かれて行く馬の片陰に近付いた。声高く話す馬士《まご》どもの言葉を一句も聞き洩らすまいと腕を組み直し、笠を傾けて行った。
菊川の家並《やなみ》外れから右に入って小夜《さよ》の中山を見ず。真直に一里半ばかり北へ上ると、俗に云う無間山《むげんざん》こと倶利《くり》ヶ|岳《だけ》の中腹に、無間山《むげんざん》、井遷寺《せいせんじ》という梵刹《おてら》がある。この寺は昔、今川義元公が戦死者の菩提《ぼだい》のために、わざと風景のよい山の中腹に建てられたもので、寺領も沢山に附いておったが、その後、信長公、秀吉公、東照宮様と代が変って来るうちに、その寺領もなくなり、久しく無住の荒れ寺となって、妖怪《ばけもの》が出るというような噂まで立っていた。
ところがツイ二三年前のこと、甲州生れの大工上りとかいう全身に黥《いれずみ》をした大入道で、三多羅和尚《さんたらおしょう》という豪傑坊主が、人々の噂を聞いて、一番俺がその妖怪《ばけもの》を退治《たいじ》てくれようというのでその寺に住《すま》い込み、自分でそこ、ここを修繕して納まり返り、近郷近在の無頼漢を集めて御本堂で賭博《ばくち》を打たせ、寺銭《てらせん》を集めて威張っている。自分も相当の好きらしく時々寺銭を賭《は》っているそうなが、不思議な事にこの坊主を負かすと間もなく、御本堂がユサユサと家鳴《やな》り震動して天井から砂が降ったり、軒の瓦が辷《すべ》ったりする。その物すごさに一同が居たたまれずに逃げ出すと、又、間もなく静まり返るので、打連れて本堂に引返してみると、こは如何に。今まで山のように積んであった寺銭も場銭《ばせん》も盆|茣蓙《ござ》も、賽目《さいのめ》までも虚空に消え失せて、あとには夥しい砂ほこりが分厚く積っているばかり。それが恐ろしさと馬鹿らしさに皆、忘れても和尚を負かさぬように気を付けているが、それでも時々大地震のような家鳴《やなり》、震動が起るので、事によるとやはり狐狸《こり》の仕業《しわざ》かも知れない。とはいえ場所はよし、和尚の取持《とりもち》はよし、麓の一本道に見張りさえ付けておけば、手入れの心配は毛頭ないので、入れ代り立代り寄り集まって手遊びするものの絶えぬところが面白い。もちろんそのような家鳴、震動の度毎《たびごと》に、麓の百姓に聞いてみても、そんな地震は一向知らぬという話。ナント面妖な話ではないかえ。その狐か狸かが渫《さら》って行った金高を集めたなら、大したものづら……といったような話を、頭に刻み込み刻み込み行くうちに銀之丞は、いつの間《ま》にか菊川の町外れを右に曲って、松の間の草だらけの道を、無我夢中で急いでいた。……大工上りの袁許坊主《おげぼうず》……井遷寺《せいせんじ》のカラクリ本堂……思いもかけぬ大金儲けの緒《いとぐち》……生命《いのち》がけの大冒険……といったような問題を、心の中でくり返しくり返し考えながら……。
無間山井遷寺は聞きしにまさる雄大な荒廃寺《あれでら》であった。星明りに透かしてみると墓原《はかはら》らしい処は一面の竹籔となって、数百年の大|銀杏《いちょう》が真黒い巨人のように切れ切れの天の河を押し上げ、本堂の屋根に生えたペンペン草、紫苑のたぐいが、下から這い上った蔦《つた》や、葛蔓《くずかずら》とからみ合って、夜目にもアリアリと森のように茂り重なっていた。
見張りの眼を巧みに潜ってきた銀之丞が、閉め切った本堂の雨戸の隙間からチラチラ洩れる火影を窺《のぞ》いてみると、正しく天下晴れての袁彦道《ばくち》の真盛り。月代《さかやき》の伸びた荒くれ男どもは本職の渡世人らしく、頬冠りや向う鉢巻で群がっている穢苦《むさくる》しい老若は、近郷近在の百姓や地主らしい。正面に雲竜《うんりゅう》の刺青《ほりもの》の片肌を脱いで、大胡坐《おおあぐら》を掻いた和尚の前に積み上げてある寺銭が山のよう。盆茣蓙《ぼんござ》を取巻いて円陣を作った人々の背後《うしろ》に並んだ酒肴《さけさかな》の芳香《におい》が、雨戸の隙間からプンプンと洩れて来て、銀之丞の空腹《すきばら》を、たまらなく抉《えぐ》るのであった。
そのうちに盆茣蓙の真中に伏せてあった骰子《さいころ》壺が引っくり返ると、和尚の負けになったらしく、積上げられた寺銭が、大勢の笑い声の中《うち》にザラザラと崩れて行く。それを見ると和尚が不機嫌そうにトロンとした眼を据えて、
「……これはいかん。ああ。酔うた酔うた。ドレちょっと一パイ水でも呑んで来ようか」
と云ううちに立上った和尚の物すごい眼尻に引かえて、唇元《くちもと》の微かな薄笑いが、裸体《はだか》蝋燭の光りにチラリと映ったのを銀之丞は見逃がさなかった。
銀之丞はコッソリと雨戸から離れて、ドシンドシンという和尚の足音が、どこへ行くかを聞き送っていた。
和尚の足音は渡殿《わたどの》を渡って庫裡《くり》の方へ消えて行った。そこの闇《くら》がりで水を飲む柄杓《ひしゃく》の音がカラカラと聞こえたが、やがて又今度は音も立てずにヒッソリと渡殿を引返して、何やドッと笑い合う賭博《ばくち》連中のどよめきを他所《よそ》に、本堂の外廊下の暗《やみ》に消え込んで行ったと思うと、不思議なるかな。さしもの本堂の大伽藍《だいがらん》の鴨井《かもい》のあたりからギイギイと音を立てて揺れはじめ、だんだん烈しくなって来て本堂一面に砂の雨がザアザアと降り出し、軒の瓦がゾロゾロガラガラと辷り落ちて、バチンバチンと庭の面《も》を打つ騒ぎに、並居《なみい》る渡世人や百姓の面々は、すはこそ出たぞ、地震地震と取るものも取りあえず、燭台を蹴倒し、雨戸を蹴放《けはな》して家の外へ飛び出せば、本堂の中は真暗闇となって、聞こゆるものは砂ほこりの畳に頽雪《なだ》るる音ばかりとなった。
なれども銀之丞はちっとも驚かなかった。こっそりと渡殿の欄干を匐《は》い上り、本堂の外縁にまわり込んでみると、本堂の真背後《まうしろ》に在る内陣と向い合った親柱を、最前の三多羅和尚が双肌脱ぎとなり、声こそ立て
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