名娼満月
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)人皇《じんのう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青山|銀之丞《ぎんのじょう》という

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)茶※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《ちゃづか》
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 人皇《じんのう》百十六代桃園天皇の御治世。徳川中興の名将軍吉宗公の後を受けた天下泰平の真盛り。九代家重公の宝暦《ほうれき》の初めっ方。京都の島原で一と云われる松本楼に満月という花魁《おいらん》が居た。五歳の年に重病の両親の薬代に代えられた松本楼の子飼いの娘ながら、名前の通り満月をそのままの美くしさ。花ならば咲きも残らず散りも初《そ》めぬ十九の春という評判が、日本国中津々浦々までも伝わって、毎年三月の花の頃になると満月の道中姿を見るために洛中洛外の宿屋が、お上りさんで一パイになる。本願寺様のお会式《えしき》にも負けぬという、それは大層な評判であった。
 その頃、満月に三人の嫖客《おきゃく》が附いていた。
 一人は越後から京都に乗出して、嵯峨野の片ほとりに豪奢《ごうしゃ》な邸宅を構え、京、大阪の美人を漁りまわしていた金丸《かなまる》長者と呼ばれる半老人であった。はからずもこの満月に狃染《なじ》んでからというもの、曲りかけている腰を無理に引伸ばし、薄い白髪鬢《しらがびん》を墨に染め、可笑《おか》しい程派手な衣裳好みをして、若殿原《わかとのばら》に先《せん》をかけられまいという心遣いや金づかいに糸目を附けず。日本中を真半分に割って東の方に在るものは皆《みんな》、満月に買うてやりたいほどの意気組であった。
 今一人は青山|銀之丞《ぎんのじょう》という若侍であった。関白七条家の御書院番で、俗に公家侍というだけに、髪の結い振り。素袍《すおう》、小袴《こばかま》の着こなしよう。さては又腰に提げた堆朱《ついしゅ》の印籠《いんろう》から青貝の鞘《さや》、茶※[#「木+霸」、第3水準1−86−28]《ちゃづか》、白金具《しろかなぐ》という両刀の好みまで優にやさしく、水際立った眼元口元も土佐絵の中から脱け出したよう。女にしても見まほしい腮《あぎと》から横鬢《よこびん》へかけて、心持ち青々と苦味走ったところなぞ、熨斗目《のしめ》、麻裃《あさがみしも》を着せたなら天晴れ何万石の若殿様にも見えるであろう。俺ほどの男ぶりに満月が惚れぬ筈はない。日本一の美男と美女じゃもの。これが一所《いっしょ》にならぬ話の筋は世間にあるまい……といったような自惚《うぬぼ》れから、柄にない無理算段をして通い初《そ》めたのが運の尽き。案の定惚れたと見せたは満月の手管らしかった。天下の色男と自任していた銀之丞が、花魁《おいらん》に身上げでもさせる事か。忽ちの中《うち》に金に詰まり初め、御書院番のお役目の最中は、居眠りばかりしていながらに、時分を見計らっては受持っている宝物棚の中から、音に名高い利休の茶匙《ちゃさじ》、小倉《おぐら》の色紙を初め、仁清《にんせい》の香炉《こうろ》、欽窯《きんよう》の花瓶なぞ、七条家の御門の外に出た事のない御秘蔵の書画|骨董《こっとう》の数々を盗み出して、コッソリと大阪の商人に売りこかし、満月に入れ揚げるのを当然の権利か義務のように心得ている有様であった。
 残る一人は大阪屈指の廻船問屋、播磨《はりま》屋の当主|千六《せんろく》であった。二十四の年に流行病《はやりやみ》で両親を失ってからというもの、永年勤めていた烟《けむ》たい番頭を逐《お》い出し、独天下《ひとりてんか》で骨の折れる廻船問屋の采配を振り初めたところは立派であったが、一度、仲間の交際《つきあい》で京見物に上り、眉の薄い、色の白いところから思い付いた役者に化けて松本楼に上り、満月花魁の姿を見てからというもの役者の化けの皮はどこへやら、仲間に笑われながら京都に居残り、為替《かわせ》で金を取寄せて芸者末社の機嫌を取り、満月との首尾のためには清水の舞台から後跳《うしろと》びでも厭《いと》わぬ逆上《のぼ》せよう。自宅《うち》から心配して迎えに来た忠義な手代に会いは会うても、大阪という処が、どこかに在りましたかなあという顔をしていた。

 満月はこの三人に対して締めつ弛《ゆる》めつ、年に似合わぬ鮮やかな手管を使って見せたので、三人の競争はいよいよ激しくなって行くばかり。満月の名娼ぶりの中でも一番すごいのは、その持って生まれた手練手管であることを、三人が三人とも、夢にも気付かぬ気はいであった。どうしてもこの大空の満月を自分一人の手に握り込まねば……という必死の競争を続けるのであった。
 しかし、そのうちにこの競争も
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