勝敗が附きそうになって来た。

 青山銀之丞は、宝暦元年の冬、御書院の宝物お検《あらた》めの日が近付く前に、今までの罪の露見を恐れ、当座の小遣のために又も目星《めぼ》しい宝物を二三品引っ抱えて、行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまったのであった。
 播磨屋千六は、これも満月ゆえの限りない遊興に、敢《あ》えなくも身代を使い果して、とうとう分散の憂目《うきめ》に会い、昨日《きのう》までの栄華はどこへやら、少しばかり習いおぼえた三味線に縋《すが》って所も同じ大阪の町中を編笠一つでさまよいあるき、眼引き袖引き後指《うしろゆび》さす人々の冷笑《あざわらい》を他所《よそ》に、家々の門口に立って、小唄を唄うよりほかに生きて行く道がなくなっている有様であった。

 その宝暦二年の三月初旬。桜の蕾《つぼみ》がボツボツと白く見え出す頃、如何なる天道様《てんとうさま》の配合《とりあわせ》であったろうか。絶えて久しい播磨屋千六と、青山銀之丞が、大阪の町外れ、桜の宮の鳥居脇でバッタリと出会ったのであった。
 最初は双方とも変り果てた姿ながら、あんまり風采《ようす》が似通っているままに、編笠の中を覗いてみたくなったものらしかったが、さて近付いてみると双方とも思わず声をかけ合ったのであった。
「これは青山様……」
「おお。これは千六どの……」
 二人とも世を忍ぶ身ながらに、落ちぶれて見ればなつかし水の月。おなじ道楽の一蓮托生《いちれんたくしょう》といったような気持も手伝って、昔の恋仇《こいがたき》の意地張はどこへやら。心から手を取り合って奇遇を喜び合うのであった。蒲公英《たんぽぽ》の咲く川堤《かわどて》に並んで腰を打ちかけ、お宮の背後《うしろ》から揚る雲雀《ひばり》の声を聞きながら、銀之丞が腰の瓢《ふくべ》と盃を取出せば、千六は恥かしながら背負うて来た風呂敷包みの割籠《わりご》を開いて、焼いた干鰯《ほしいわし》を抓《つま》み出す。
「満月という女は思うたよりも老練女《てだれもの》で御座ったのう」
「さればで御座ります。私どもがあの死にコジレの老人に見返えられましょうとは夢にも思いかけませなんだが……」
 なぞと互いに包むところもなく、黄金《こがね》ゆえにままならぬ浮世をかこち合うのであった。
「それにしても満月は美しい女子《おなご》で御座ったのう」
「さいなあ。今生《こんじょう》の思い出に今一度、見たいと思うてはおりまするが、今の体裁《ていたらく》では思いも寄りませぬ事で……」
「……おお……それそれ。それについてよい思案がある。この三月の十五日の夜《よ》には島原で満月の道中がある筈じゃ。今生の見納めに連れ立って見に参ろうでは御座らぬか。まだ四五日の間《ま》が御座るけに、ちょうどよいと思いまするが……」
「さいやなあ。そう仰言りましたら何で否《いな》やは御座りましょうか。なれど、その途中の路用が何として……」
「何の、やくたいもない心配じゃ。拙者にまだ聊《いささ》かの蓄《たくわ》えもある。それが気詰まりと思わるるならば此方《こんた》、三味線を引かっしゃれ。身共《わて》が小唄を歌おうほどに……」
「おお。それそれ。貴方《あなた》様の小唄いうたら祇園、島原でも評判の名調子。私の三味線には過ぎましょうぞい」
「これこれ。煽立《おだ》てやんな。落ちぶれたなら声も落ちつろう。ただ小謡《こうたい》よりも節《ふし》が勝手で気楽じゃまで……」
「恐れ入りまする。それならば思い立ったが吉日とやら。只今から直ぐにでも……」
「おお。それよ。善は急げじゃ」
 酒のまわり工合もあったであろう。さもなくとも色事にだけは日本一|押《おし》の強い腰抜け侍に腑抜《ふぬ》け町人。春の日永《ひなが》の淀川づたいを十何里が間。右に左にノラリクラリと、どんな文句を唄うて、どんな三味線をあしろうて行ったやら。揃いも揃うた昔に変る日焼|面《づら》に鬚《ひげ》蓬々《ぼうぼう》たる乞食姿で、哀れにもスゴスゴと、なつかしい京外れの木賃宿に着いたのが、ちょうど大文字山の中空《なかぞら》に十四日月のほのめき初《そ》むる頃おいであった。明くれば宝暦二年の三月十五日。日本切っての名物。島原の花魁《おいらん》道中の前の日の事とて、洛中洛外が何とのう、大空に浮き上って行きそうな気はいが、二人の泊っている木賃宿のアンペラ敷の上までも漂うていた。
 月は満月。人も満月。桜は真盛り……。
 島原一帯の茶屋の灯火《あかり》は日の暮れぬ中《うち》から万燈《まんどう》の如く、日本中から大地を埋めむばかりに押寄せた見物衆は、道中筋の両側に身動き一つせず。わけても松本楼に程近い石畳の四辻は人の顔の山を築いて、まだ何も通らぬうちから固唾《かたず》を呑んで、酔うたようになっていた。
 そのうちに聞こえて来る前触《しらせ》の拍子木。草履の
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