でね。非常線が張ってあるんです。私は横浜の免状を持っておりますし、車も横浜のですから帰れるには帰れるんですが。旦那が無事に通れますかどうか」
「アハハハ、馬鹿にするない、俺が殺したんじゃあるまいし」
女運転手はニヤリと冷たく笑った。
「何とも知れませんわねえ。……でもあなたさえよかったら、方法があるんですが……」
「……フーム。どうするんだい」
「その腰かけの下へ寝るんです」
「何……この下へ……」
私はソロソロ動き出して車の中で立上って座席のクッションを持上げてみた。
……何と……座席の下はチャント革張りの寝床になって、空気枕さえ置いてある。四方が金網張りで、空気が、自由に出入りするようになっているところを見ると、この車は尋常の車でない。そう気が付くと同時に私は一瞬間色々な想像を頭の中で急転さしたが、この際躊躇している場合でないと思った。
で、思い切ってこの中にモグリ込んで、紙幣《さつ》をひっぱりだした。
「ホラ十円遣る」
「ありがとう御座います。後から頂きます」
といううちに運転手は猛然とスピードを出した。ブンブンいうエンジンの音を聞いているうちに、疲れ切った私はとうとうウトウトしかけて行った。眠ってはならぬと思いながら。
「旦那様……まいりました」
耳元で呼ぶ声がする。
「オイ来た」
反射的に私は身を起した。女運転手は冷笑しいしい、クッションの下から這い出した私の腕をとらえて、コンクリート造りの大きな西洋館に連れ込んだ。
表柱の標札を見ると天洋ホテル、伊勢崎町と書いてある。いつの間にか横浜へ来たのだ。
女運転手は私を二階の十二号の特等室に案内した。
「ちょっとここでお待ちになって下さい」
と云ったまま、サッサと出て行ってしまった。靴を脱いで、私はスッカリ眼が冴えたままベットの上に長くなった。豆の出来た足を揉み揉み女運転手が帰って来るのを待った。
十分……二十分……三十分……。
私はイヨイヨ彼女が来ない事がわかると又もジリジリと緊張して来た。さてはイヨイヨインチキホテルだな。この俺を捕まえて変な真似をしやがったら、それこそ運の尽きだぞ。どっちにしても冥土の道連れだ。東京で失敗した埋め合わせだ。どうするか見やがれ……といったような気もちで手を伸ばすと枕元のベルを二つ三つ押してみた。
翌日出帆の上海《シャンハイ》行汽船の白切符を買って来いと命じて、私はその上海行きの長崎丸という汽船に乗って盛広《もりひろ》の短刀と一緒に一切の事実を告白した遺書を残して、海中へ飛込む計劃である。万が一にも助からないようにピストルで頭を撃って……するとすぐ扉《ドア》をノックして十四五の可愛い顔のボーイが這入って来た、眼をマン丸くしてお辞儀をした。
「何か御用ですか」
私はすっかり張合が抜けてベットに長くなって寝たまま金を渡した。
切符を買って来たボーイは妙にニコニコしながら両手を揉んだ。
「御夕食後御退屈ならホテルのダンスホールにおいでになりませんか。すぐこの下ですが」
私は十二分の好奇心をもって、夕食もソコソコに階下のダンスホールにいって見た。そこで何事か起るに違いないといったような予感に打たれたが、しかしダンスホールには何等変った事がなかった。しかも東京の騒動が利いていたせいか、踊る客人は極めて僅少で、ただ一人若い医者らしいスマートな男が、一人で噪《はしゃ》いで踊っているのを、大勢の女がヤンヤと持て囃《はや》しているだけであった。その男は皮膚が薄赤くて髪毛《かみのけ》と眉毛が黄色く薄い男であったが、あんまり朗らかで愉快そうに見えるから、私は云い知れぬなつかし味をおぼえながら眺めているところへ、一おどり踊り終ったその男は、桃色に染った口をハンカチで拭き拭きすぐ私の傍《そば》の安楽椅子へ来てドッカリと腰をかけた。
「やー、どうも失礼しました」
ヒョッコリと私に向って頭を下げた。何のわだかまりもない風付《ふうつ》きで私にシャンパンのコップをすすめた。
「ありがとう御座います。しかし頂きません」
私がこう云って頭を下げると相手の男は見る見る妙な顔になって、私を見た今までの快活さはどこへやら、暫くの間ジイッと顔の筋力を剛《こわ》ばらせて、不思議な事に私の顔を凝視している様子であったが、やがてホッとため息しいしい大きく一つうなずいた。
「ハハアー、貴方は心臓がお悪いですな」
私の心臓が大きく一つドキンとした。
「エッ……ど……どうしておわかりになりますので……」
「アハハ、お顔色でわかります。大動脈瘤でしょう」
「……………」
私はもうすこしで気絶するところであった。その私の眼の前へ、男は名刺を差出した。受取って見ると、「レントゲン専門医学士|古木亘《ふるきわたる》」と明朝体で印刷してある。私はこの男の肉眼までが、レントゲンで出来ているのじゃないかと疑った。
「ハハアー。レントゲン専門の方で……」
「そうです。大動脈瘤なら私の処へ毎日のように押しかけて参りますので、皮膚のキメを一眼見るとわかる位になれているのです。皆無事に助かる人が多いのでね。押すな押すなという景気です、ハハハ……」
古木学士はポカンと口を開けている私を見い見い言葉を続けた。
「イヤ。何でもない治療法なんです。私の秘薬でね、ブシリンという植物質のアルカロイドがあるのです。この薬を飲んでいるうちに血管がスグと柔らかくなって血圧が低くなるので、容易にパンクしないのです。ですから、その薬を差上げながら動脈瘤の病源である黴毒を根治するために、六百六号を注射しておりますと、動脈瘤がだんだん小さくなって、普通の丈夫な血管に回復するのです。しかもその膨れていた処には、丈夫な石膏の壁が残るために、二度とそこからはパンクしなくなるのです。私の処に見えた患者で助からなかった人は十人に一人しかありませんよ」
私は世にも意気地もなく椅子から辷《すべ》り降りた。
「どうぞ、僕に、その薬を頂かして下さいませぬか。お助け下さいませぬか」
「アハハ。お易い御用です。まあおかけ下さい。この薬です。カプセルに這入っている白い粉末ですが、アイヌが矢尻に塗るブシという毒薬から採った薬です。これをお飲みになれば少くとも二十四時間はどんな劇烈な運動をしても心臓はパンクしません。……オイ! オーイ! この方にプレンソーダを一杯持って来て差上げろ」
私は夢に夢みるような気持になった。
「しかし……先生のような方が……どうしてコンナ処に……」
「アッハッハッハッハッ。貴方の御運が強いのですね。……実はコンナ処へでも来て息を抜かなくちゃ遣り切れないほど儲かりますのでね。ハッハッ」
「やはり……その動脈瘤の治療で……」
「ナアーニ。動脈瘤の方はタカが知れておりますよ。例の深透レントゲンが大繁昌でね。有閑マダムや有閑令嬢の秘密をワンサ握っているもんですからね。コレで商売が繁昌する世の中はロクな世の中じゃありませんよ。ハッハッハッ」
私はソーダ水に酔払ったような気持になった。私は古木学士に手を引かれてダンスホールに出た。女を三人も縋り付かせて水車の如く廻転さしてみせた。それから女どもに取巻かれて古木学士と抱き合いながら踊っているうちに、部屋中の灯《ひ》が突然虹のようにギラギラと輝き出したように見えた。それにつれて口の中が妙に黄臭《きなくさ》くなって来たので、毒を飲まされたのかと思ったが、もう遅かった。誰か五六人の手でシッカリと背中を抱えられているのを感じたきり何もかもわからなくなってしまった。
四
フッと眼をさますと私は見慣れない病院の一室に寝ている。緑色の壁と薄紫のカアテンに囲まれた静かな、暗い、窖《あなぐら》のような病室だ。カアテンの間から明るい青空の光りが流れ込んで、寝台の枕元から私の顔の真上に垂れ下っているスイトピーを美しく輝かしている。鼻が痲痺しているせいか芳香がしないようである。そのうちに身体《からだ》中がビッショリと汗を掻いて来た。身体《からだ》をモジモジと動かしてみると、フランネルか何かの寝巻を着ているようである。
「……アッ……」
という小さな叫び声が私の枕元から聞えたので、ビックリして振り返ってみると、栗色の髪をグルグル巻にした黄色いワンピースの少女、眼の大きい、唇の赤い、鼻の高い、憂鬱な檳榔樹《びんろうじゅ》色の少女だ。
「アダリー」
アダリーは返事の代りに大きな瞬きを一つした。印度人特有の表情の一つであろう。
「きょうは何日……」
「……五月……ジュ……サンニチ……」
「エッ……十三日……ほんとか……」
「……ホント……です……」
と云ううちにアダリーは壁際の小|卓《テーブル》の上に置いてある新聞を取って見せた。私は引ったくるようにして日附を見た。東京昼夜新聞一万八千二十一号昭和九年五月十三日……日露国交好転……欧洲再び戦乱の兆。
「ここはどこ……」
「古木レントゲン病院……」
私は唖然となった。しかし間もなく吾に帰ると飛び上って叫んだ。
「オイ大変だ大変だ……先生……古木先生を呼んで来てくれ」
私の吃驚《びっくり》し方《かた》があんまりひどかったものでアダリーも驚駭《びっくり》したらしい。両手を頭の上に差上げ差上げアヤツリ人形のように両膝を高く揚げながら駈け出して行った。
予定の日数よりも三日ほど生き伸びている。心臓に手を当ててみると、相も変らずハッキリした流れをトクントクンと打っている。……冗談じゃない。
訳がわからぬまま、クシャクシャになった頭を掻きまわしたり、鬚だらけになった顎をゴリゴリ撫でまわしたりしているところへ扉《ドア》をノックして、古木先生が悠然として這入って来た。
「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」
「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも……」
「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」
「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは……」
「先ずこれを御覧なさい」
古木先生はすこし真面目になって背後《うしろ》を振返った。古木先生の白い服の蔭に隠れていたアダリーが丸い筒を差出した。古木先生は、その筒の蓋をスポンと抜いて、中から黒い大きなセルロイドみたような正方形の紙を出した。空の方向に差し出して私に透かしてみせた。それは大きな医学用写真フイルムであった。人間の肋骨らしいものが黒く波打って並んでいる下の方に、白い雲みたようなものがボーとボヤケている。
「この白いものが貴方の心臓なのです」
「僕の心臓……」
「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」
「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」
「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」
「ヘエッ。何のために……」
「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」
「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の……まだ生きているのですか」
「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に昨夜《ゆうべ》印度へ御出発になりましたよ。銀洋丸で……」
私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして反身《そりみ》になった。学士の肩の蔭で、アダリーも可笑《おか》しいのを我慢しながらうつむいている気配である。
「何だか……僕にはわかりません」
「アハハハ……。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは未《ま》だ興行界を引退なさらない前からいつも私の処へ来て深透レントゲンをやっておられたのです。つまり美容の目的から出た産児制限ですね。貴方だから包まずにお話出来ますが、私は貴方の伯母様の御蔭で大学を出て
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