、この病院を開きましたもので、この部屋は伯母様が御入院なさる時のおきまりのお部屋だったのです」
 私は今一度室内の調度を見廻した。路易《ルイ》王朝好み、ロダンのトルソー、セザンヌの静物画……。
「わからない。不思議だ――奇遇だ……」
「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」
「計略に僕が……」
「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも防弾衣《ぼうだんぎ》を着ておられたのです。伯母様は又お得意の魔術をもってイザとなるとカラクリ寝台の中に逃げ込まれるので、いつも犯人が掴まってしまうのです。それを貴方は御存じないものですから伯父様と伯母様が、最早《もはや》おなくなりになったものと思い違いなすったのでしょう」
 私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ……と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。
「ちょうど四月二十九日の夜《よ》の事です。私は伯母様からお電話がかかりまして、銀座のセイロン紅茶店へ参りまして伯父様と伯母様とに、貴方の弟御さんからスッカリ御事情を承りましたが……」
「エッ。僕の弟……どうして」
「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった後《あと》でした。そこで伯父様と伯母様はチャント心構えをして待っておいでになるところへ、意外の出来事から貴方の伯父様に対するお気持がわかったので、伯父様は非常に喜ばれました。伯母様も貴方の弟思いの御心持にスッカリ同情されましたが、一足違いで貴方を取逃がされたのを非常に残念がり、八方に部下を飛ばして貴方の行衛《ゆくえ》を探しておられると、両国橋の方向へ行かれる貴方を発見した者が、電話で知らせた。そこで兼ねてから男装して付いていたアダリーさんが直ぐに自動車を飛ばして……」
「アッ。それではあの運転手がアダリー……」
 アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。
「アハハハ。貴方も馴染甲斐《なじみがい》のない人ですね。アダリーさんの顔を見忘れるなんて……しかしアダリーさんも……むろん私も……お話を聞いて感心しました。あなたの勇敢さと大胆さと熱意に打たれて伯父様と伯母様は何とかして救ける道はないかというので、私に治療をお願いになったのです。それで私は、わざと貴方に感付かれないように横浜の天洋ホテルでお眼にかかったのです。あの時に申上げたのは皆私の駄法螺《だぼら》だったのですが……」
「エッ駄法螺《だぼら》。あれはみんな嘘で……」
 私は又暗い気持になりかけたが、古木学士はそうした私の悲哀を吹き飛ばすように笑った。
「ハッハッ、御心配なさらずとまあお聞きなさい。私はその時に伯母様から貴方をこの病院に入れて三日間睡らせておいてくれろ。その間支度を整え印度へ逃げるからという御命令でね。で、その治療の結果を私が御報告申し上げたらお二方《ふたかた》ともスッカリ御安心で……」
「……安心……」
「ハイ……御安心で昨夜《ゆうべ》御出発になった許《ばか》りです。委細はこの手紙に書いておくからという事で……」
 古木学士は白い治療着のポケツから白い横封筒を取出して私に渡した。見忘れもせぬ伯父の筆である。
『前略。俺の過去の罪悪を知っているのはお前一人だ。そのお前が俺の生命《いのち》を救ってくれた。お前達二人は俺の良心だ。目的のために手段を択《えら》まなかった俺は罪悪を恐れる余りお前達二人を遠ざけていたことを詫びる。その詫びの印にお前の弟の友次郎へ私たちの財産の半分を残しておく。お前の気性はよくわかっている。両親の墓にこの旨を伝えてくれ。委細は麹町区大手三番の弁護士金井角蔵氏に会って聞け。俺達夫婦はまだ死にたくない。国家のために重大な仕事が残っているから印度へ去る。俺達夫婦が生きている間は日英の外交が破裂する心配はないと思え。外交の事は、お前達のような単純な書生にはわからぬ。気に入らないかも知らないがアダリーをよろしく頼む。まだ無垢の印度貴族の娘だ。そして直ちにQ大に復職せよ。柔道教師の本分を守れ。アダリーの身分の証明書と財産目録はやはり金井弁護士の処に在る』
「そうして……そうして……」
 私は真青にふるえながら古木学士の顔を見た。
「そうして……そうして僕の動脈瘤はどうなったのです」
「アハハハ。動脈瘤じゃありませんよ。その写真の通り血管の蜿《うね》りが重なり合ったものに過ぎないのです。珍らしいものですが、よく動脈瘤と間違えて騒がれるシロモノです。貴方の運動があんまり烈しかったので、血管が圧迫に堪えかねて伸びたのですね。トテも丈夫な血管ですよ、貴方のは……貴方はキット長生き……」
 私は後の説明が聞えなかった。ただアダリーがキアーッと叫んだ悲鳴が聞えただけである。気が遠くなって寝台の上に引っくり返ってしまったのだから……。



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:渥美浩子
2001年4月2日公開
2006年2月26日修正
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