なのです」
私がそう云ううちに、伯母の化粧した顔色が眼に見えて変化して来た。幾十歳の老婆のように皮膚が張力を失い、唇がわななき、眼の中に一パイ涙ぐんで来た。カップを持つ手がわなわなとふるえ出した。
「ですから御相談に来たのです。……サア……弟をどうしてくれますか」
「そ……それはもう妾《わたし》が引受けて……」
「口先ばかりではいけませんよ伯母さん。僕の眼の前でチャンとした方法を立てて下さい」
「待って……待って下さい。伯父様に一度御相談しないと……」
「馬鹿……その手を喰うと思うか。……この毒婦……」
「エッ、妾が……毒婦ですって……」
「毒婦だ毒婦だ……貴様は俺の伯父を唆《そその》かして、俺の両親の財産を横領させた上に生命《いのち》までも奪ってしまったろう……」
「アッ……そ……それは大変な貴方の思い違いです」
「ナ……ナニを今更ツベコベと……覚悟しろ……」
「アレッ……」
と叫ぶと同時に玉兎女史は、私の振上げた短刀の刃先をスリ抜けて、寝台の中に飛込んだ。玉虫色の羽根布団を頭から引っ冠ったが、私はこの羽根布団の下の人の形の胸のあたり眼がけて、グサッと短刀を突込んだ。
だが、不思議や羽根布団がビシャンコになってしまった。慌てて羽根布団をマクリ上げて下を覗いて見た私は、アッと叫んで立竦《たちすく》んだ。羽根布団の下は真赤な血に染ったシーツばかりである。そのシーツの中央には何かあって手を突込んでみると、下はからになっているらしい。こころみに両手で引明けてみると三尺ばかり下には階段があって、青い電燈が点《とも》っているのが見える。
私は一杯食わされたのだ。雲月斎玉兎女史一流の手品で逃げられてしまったのだ。が、腹を立てても追附く話でない。私は血に染んだ短刀を掴んだまま、ぼうっとしかけたが、落着いて見ると、表の方で時ならぬ声がする。
立って寝台の向うの窓から覗いて見たが、騒がしい筈だ。狭い路地口には真黒い警官がつめかけていて、この家の周囲《まわり》は蟻《あり》の這い出る隙《すき》もないくらい厳重にとりかこまれているようである。例の用心棒連はその押し合いへし合いしている中に数珠《じゅず》つなぎになってうなだれている。そのほかに、地下室で騒いでいた紳士、半裸体の女優、活動写真技師、女給なぞが、次から次に引っぱり出されて来る。十坪ばかりの空地が芋を洗うように雑沓して来る。
そのうちに背後《うしろ》の扉《ドア》が開《あ》いた音がしたので、ハッとして振向くと、顎紐をかけた警官が二三人ドヤドヤと這入って来た。皆殺気立った形相をしていたが、振返った私の血だらけの右手を見ると、イキナリ二三梃のピストルを突きつけた。
「動くな。貴様だろう。犯人は……」
私は静かに寝台の上に突立った。
「そうです。お手数はかけません」
「死骸はどこに隠した……この家《うち》の主人の死骸を……」
「知りません」
私は内心唖然とした。警官が片附けたのでなければ消え失せるよりほかになくなりようがない筈だ。
「おのれ……白《しら》を切るか」
というなり、先に立った警官が飛びかかって来た。私は咄嗟《とっさ》の間に身を飜して寝台の中へ飛び込んだ。ストンと音がして、身体《からだ》が階段の上に落ちるとすぐに、跳ね起きて階段を駈け降りた。
馳け降りると一つの扉《ドア》にぶつかった。ぶつかるとすぐに押開いて中にはいると、頑丈な閂《かんぬき》が取付けてあるのを発見したので、これ幸いとガッチリ引っかけた。私はやっと落着いて、胸の動悸をしずめて真闇《まっくら》になったトンネルを手捜《てさぐ》りで歩き出した。どこへ行くかわからないまま……。
三
私は割り切れない不思議な出来事の数々を考え考え暗闇《くらやみ》の中を二三町ほど手捜《てさぐ》りに歩いて行った。
この上もない卑怯者と思い込んでいた伯父が、この上もなく勇敢に死んで行った事実。その死体が、いつかの間に消え失せた事実。アダリーが私の正体を知っている不思議さ。伯母が私の名前を知っている不思議さ。伯父の死に無関心な伯母とアダリーの白々しい芝居。この伯母が、私の動脈瘤に寄せた深刻な同情……それからあの寝台のトリック……この抜け穴……理窟に合わない事ばかりだ。夢に夢見るような不思議な事ばかりだ。よく私の心臓がパンクしなかった事と思う。今日か明日《あす》に運命が迫っているのに……など思い思い手捜《てさぐ》りをして行くうちに、又一つの階段にぶつかった。螺旋《らせん》型になっているようだ。それを二三十段登り詰めてからマッチを摺《す》ると、回転|扉《ドア》らしいものにぶつかった。上下に手の汚れが附いている。下の方を押してみると案の定クルリと廻転して、美事なアパートの一室に出た。――窓から覗くと下は銀座一丁目の往来だ。
部屋の片隅の洋服掛に美事なタキシードが掛けてあって、その上下にベロア帽とカンガルー皮の靴と銀頂のスネーキウッドの杖が置いてある。
私はあの玉兎女史の血でよごれた古背広を脱いで、躊躇もなく大急ぎでその服と着かえた。帽子を冠る時に女の髪の臭いがプーンとしたので、これはあの毒婦雲月斎の変装用だなと気が付いた。帽子の大きいのと靴の小さいのには閉口したが、それでもどうにか胡魔化《ごまか》した。着換えてしまってみると、右のポケットに精巧な附髭《つけひげ》と黒い鼈甲縁《べっこうぶち》の色眼鏡があるのを探り当てたので、早速それを応用した。手鏡に写してみるとどうみても一流の芸術家だ。
往来へ出ると同時に私は直ぐ横の煙草屋の飾窓《ショーウインド》の前に立った。その飾窓《ショーウインド》の横側に斜《ななめ》に嵌《は》め込んである鏡を覗いて今一度私の変装姿を印象すべく……。
ところが、その中に私は自分の姿を認める前に驚くべきものを発見してしまった。すぐ私の背後《うしろ》に立止まって凝《じ》っと覗いているサラリーマンらしい中年紳士の肩越しに、銀座の往来の断面が三分の二ほど映っている。この往来を電車と並行して来る美事な旧式パッカードの箱自動車の中に並んでいる――燕尾服の紳士と夫人らしい夜会服、それがソックリ伯父と玉兎女史に見えたのだ。
私は銀座の真中で幽霊に会った気持になった。急にタマラナク恐ろしくなって脱兎のように電車道へ出た。
「危いッ!」
と車掌が怒鳴るのも聞かずに走って来た電車に飛乗った。尾張町に来ると又飛降りた。
そのまま何気なく築地の八方館に帰ろうと思って木挽橋《こびきばし》の袂《たもと》まで来たが、河向うを見るとハッと立停まった。河向うの八方館の入口から出て来たばかりの二三人の警官が、河岸《かし》に立って左右をキョロキョロと見まわしている。ああ、私の正体がその筋から看破されているばかりでない、宿屋まで突止められているとは、何という機敏さであろう。弟にも知らせずに九州から来た私の正体が、どこから、どうしてわかったのであろう。――ただ呆然と佇んでいる私の耳に、魔者の声のようなラジオが聞えて来た。
「……引続いて今晩の最終九時半のニュースを申上げます。今晩銀座×丁目二十四番地、印度人シャイロック・スパダ氏経営に依るカフェー・クロコダイルで世にも恐しい且つ奇怪なギャング事件が勃発致しました。襲撃致しましたのは過般銀座銀行を襲撃して満都を驚かしました国粋団の一味で、カフェー・クロコダイルの入口に立っておりました印度人シャイロック・スパダ氏を射殺し、尚も奥へ乱入しようと致しましたが、急を聞いて馳付《かけつ》けた警官のために三人ほど捕縛されてしまいました。
同時に該《がい》カフェー・クロコダイルの醜い営業振りが悉く当局の手によって暴露される事になりましたが、詳細な点はまだ、発表を停められておりますから悪しからず御諒察を願います。
但し、ここに一つの不思議な事と申しまするのは、その愛国団の一味のほかに今一人、一人の兇漢が、カフェー・クロコダイルの中に忍び込んでいたことで御座います。その兇漢は、混雑に紛れて同カフェーの二階に馳上り、二階事務室に潜んでいたスパダ氏の情人、有名な雲月斎玉兎女史を刺殺して地下道から逃亡しました。しかも最も不思議な事に、その怪漢の悪戯《いたずら》でもございましょうか、スパダ氏の死体と玉兎女史の死骸が警官の出動と同時にかき消す如く消え失せました事で、そのために当局では事件の真相が判明せず、些からず困惑している模様で御座います。
しかし、その兇徒の人相風采は目撃者の説明によって詳細判明しておりますから遅くも明夜までには逮捕される見込みで目下東京市中は非常警戒網が張られているところであります。……以上……」
私はふらふらと真暗い材木|積《づみ》の蔭からソロソロと歩き出して、向側の車道に片足をかけようとした。この時、左の方から疾走して来たパッカードのオープンが烈しい警笛を鳴らしながら、行きすぎた。危く轢《ひ》かれ損なった私は慌てて歩道の上に飛び上って振り返ったが、思わずアッと声を揚げた。
そのパッカードの中に黄色いルームに照らされて並んでいたのは疑いもなく私の弟と、アダリーではなかったか。しかも弟はリュウとした紺と茶縞の――彼の好きだと云っていた柄のサックコートに青光りするカンカン帽を冠っていた。アダリーは小さな黒い鉄兜《てつかぶと》形の婦人帽に灰色の皮膚をクッキリと際立《きわだ》たせた卵色の散歩服、白靴下、白靴。二人とも胸に揃いの黄金色のバラの花をさしていたではないか。そうして二人とも驚いた風で私を見ると同時に互いに相手の膝を押えて制し合った。
ああ、私が九州を出て来て以来の出来事は何もかも一続きの悪夢の連続ではないか知らん。私は依然として東海道線の寝台車の中に睡っているのじゃないかしらん。否、弟が私の動脈瘤を宣告した事からして、私が常々心配していた事が夢となって現われたものに過ぎないので、私はまだQ大の十一号病室の寝台に横たわったまま、こうして悪夢から醒め得ないで藻掻《もが》いているのじゃないかしらん。
私は何が何やらわからなくなったままスタスタと歩き出した。同時に左右の踵《かかと》に処々靴ズレが出来たらしくヒリヒリと痛みだしたのを感じた。
だが、私は東京市中の交番の配置がこれ程までに巧妙に出来ていようとは思わなかった。
私は曾て長い事、東京に住んでいたし、東京の裏面にもかなり精通しているつもりであるが、交番の前を通り抜けずに東京市外に出る事が絶対に不可能である事を、この時に生れて初めて知った。それ程に東京市中の交番の配置は巧妙に出来ているのであった。
私は行く先々に白い交番が新しく新しく出来て行くのじゃないかと思い思い、抜け裏を潜ったり交番の前を電車の陰になって走ったりして、ヤッとの思いで両国の川縁《かわぶち》まで来た。もうここから先へは一歩も行けない。行けば橋の袂の交番にぶつかる。河岸から小舟を雇っても水上署の眼を逃れる事は出来ない。多分河口には鋭い眼が光っている事であろう。
私は進退|谷《きわ》まった。目的を遂げずに罪人となって町を逍迷《さまよ》った揚句《あげく》行く先がなくなるとは何という不運な私であろう。
私は悠々と流るる河の水を眺めた。星の光りと、灯の明《あかり》と入り乱れて夢のように美しい。コンナ時に人間はふいと死ぬ気になるものか……と思いながら……。
「旦那。行きますか」
不意に私の背後《うしろ》で柔和な男のような声がしたので私はびっくりして振返った。美事な流線型の箱自動車が待っている。
私は黙って飛乗ったが、乗ってみると驚いた。運転手は女で、粗い縞の鳥打帽。バックミラー越しにチラリと見えたその下に私と同じの黒色鏡がかかって、ヤモリ色をしているその顔が私をチラリとニッコリと笑った。
「ドチラへ参りましょうか」
「どこでもいい、郊外へ出てくれ」
「エッ郊外……」
女運転手が可愛い眉をひそめた。どこかで見たような女だとは思ったが、この時はどうしても思い出せなかった。
「郊外は駄目なのかい」
「いいえ。何ですか、きょうは銀座で騒ぎがありましたの
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