ないか知らん。私は依然として東海道線の寝台車の中に睡っているのじゃないかしらん。否、弟が私の動脈瘤を宣告した事からして、私が常々心配していた事が夢となって現われたものに過ぎないので、私はまだQ大の十一号病室の寝台に横たわったまま、こうして悪夢から醒め得ないで藻掻《もが》いているのじゃないかしらん。
私は何が何やらわからなくなったままスタスタと歩き出した。同時に左右の踵《かかと》に処々靴ズレが出来たらしくヒリヒリと痛みだしたのを感じた。
だが、私は東京市中の交番の配置がこれ程までに巧妙に出来ていようとは思わなかった。
私は曾て長い事、東京に住んでいたし、東京の裏面にもかなり精通しているつもりであるが、交番の前を通り抜けずに東京市外に出る事が絶対に不可能である事を、この時に生れて初めて知った。それ程に東京市中の交番の配置は巧妙に出来ているのであった。
私は行く先々に白い交番が新しく新しく出来て行くのじゃないかと思い思い、抜け裏を潜ったり交番の前を電車の陰になって走ったりして、ヤッとの思いで両国の川縁《かわぶち》まで来た。もうここから先へは一歩も行けない。行けば橋の袂の交番にぶつかる。河岸から小舟を雇っても水上署の眼を逃れる事は出来ない。多分河口には鋭い眼が光っている事であろう。
私は進退|谷《きわ》まった。目的を遂げずに罪人となって町を逍迷《さまよ》った揚句《あげく》行く先がなくなるとは何という不運な私であろう。
私は悠々と流るる河の水を眺めた。星の光りと、灯の明《あかり》と入り乱れて夢のように美しい。コンナ時に人間はふいと死ぬ気になるものか……と思いながら……。
「旦那。行きますか」
不意に私の背後《うしろ》で柔和な男のような声がしたので私はびっくりして振返った。美事な流線型の箱自動車が待っている。
私は黙って飛乗ったが、乗ってみると驚いた。運転手は女で、粗い縞の鳥打帽。バックミラー越しにチラリと見えたその下に私と同じの黒色鏡がかかって、ヤモリ色をしているその顔が私をチラリとニッコリと笑った。
「ドチラへ参りましょうか」
「どこでもいい、郊外へ出てくれ」
「エッ郊外……」
女運転手が可愛い眉をひそめた。どこかで見たような女だとは思ったが、この時はどうしても思い出せなかった。
「郊外は駄目なのかい」
「いいえ。何ですか、きょうは銀座で騒ぎがありましたの
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