部屋の片隅の洋服掛に美事なタキシードが掛けてあって、その上下にベロア帽とカンガルー皮の靴と銀頂のスネーキウッドの杖が置いてある。
私はあの玉兎女史の血でよごれた古背広を脱いで、躊躇もなく大急ぎでその服と着かえた。帽子を冠る時に女の髪の臭いがプーンとしたので、これはあの毒婦雲月斎の変装用だなと気が付いた。帽子の大きいのと靴の小さいのには閉口したが、それでもどうにか胡魔化《ごまか》した。着換えてしまってみると、右のポケットに精巧な附髭《つけひげ》と黒い鼈甲縁《べっこうぶち》の色眼鏡があるのを探り当てたので、早速それを応用した。手鏡に写してみるとどうみても一流の芸術家だ。
往来へ出ると同時に私は直ぐ横の煙草屋の飾窓《ショーウインド》の前に立った。その飾窓《ショーウインド》の横側に斜《ななめ》に嵌《は》め込んである鏡を覗いて今一度私の変装姿を印象すべく……。
ところが、その中に私は自分の姿を認める前に驚くべきものを発見してしまった。すぐ私の背後《うしろ》に立止まって凝《じ》っと覗いているサラリーマンらしい中年紳士の肩越しに、銀座の往来の断面が三分の二ほど映っている。この往来を電車と並行して来る美事な旧式パッカードの箱自動車の中に並んでいる――燕尾服の紳士と夫人らしい夜会服、それがソックリ伯父と玉兎女史に見えたのだ。
私は銀座の真中で幽霊に会った気持になった。急にタマラナク恐ろしくなって脱兎のように電車道へ出た。
「危いッ!」
と車掌が怒鳴るのも聞かずに走って来た電車に飛乗った。尾張町に来ると又飛降りた。
そのまま何気なく築地の八方館に帰ろうと思って木挽橋《こびきばし》の袂《たもと》まで来たが、河向うを見るとハッと立停まった。河向うの八方館の入口から出て来たばかりの二三人の警官が、河岸《かし》に立って左右をキョロキョロと見まわしている。ああ、私の正体がその筋から看破されているばかりでない、宿屋まで突止められているとは、何という機敏さであろう。弟にも知らせずに九州から来た私の正体が、どこから、どうしてわかったのであろう。――ただ呆然と佇んでいる私の耳に、魔者の声のようなラジオが聞えて来た。
「……引続いて今晩の最終九時半のニュースを申上げます。今晩銀座×丁目二十四番地、印度人シャイロック・スパダ氏経営に依るカフェー・クロコダイルで世にも恐しい且つ奇怪なギャング事件
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