だ。
 君も知っているだろう。ツイ近くのB町に起った虎列剌《コレラ》事件を……知っているが立消えになったから真相は知らないと云うのか。警察に尋ねたけれどもわからない……ウンウン。わからない筈だ。あれは大きな声では云えないが警察と裁判所の大失態だからね。ちょうど去年の秋の大演習を控えて、行幸《ぎょうこう》を仰ごうという矢先だったもんだから県下一般、大狼狽を極めたらしいんだが、ソイツが立消えになった。そのまま行幸を仰いだというのだから、ドチラにしても責任は重大だろう。たしか県会で、警察当局が真相を質問されて、ギュウギュウ云わされたって話だ。
 その真相というのは実に他愛のない、一場のナンセンス劇みたいなもんだがね。
 君も知っている通り、B町っていうのは田舎のちょっとした町だ。あれで人家が二百戸ぐらい在るかなあ。
 あの町の中央の警察署の隣家《となり》に斎藤という、長い天神髯を生やした開業医がある。年はもう六十近かったがナカナカ人格者という評判でね。五十ぐらいの奥さんと二十五六の一人息子の三人暮しだ。この一人息子は当大学出身の医学士で、M内科の副手になって論文を書いている秀才……という訳だ。
 その天神髯の斎藤さんの飲み友達で、町外れの一軒屋に開業している西木という独身の獣医が在る。その娘で去年女学校を出たばかりの才媛……だったか、どうだか知らないが、とにかくステキな別嬪《べっぴん》さんと、斎藤さんの息子の医学士と、早くから婚約が出来ていたんだね。博士になったら帰って来て父の業を継ぐ。同時に正式に結婚するという訳でね。よくある話だ。

 ところが去年の夏だ。六月だっけか暑い晩に、天神髯の斎藤さんが、親友の西木獣医の処へ押しかけて行って、娘さんのお酌で酒を飲んだ。鰯《いわし》のヌタに蒲鉾《かまぼこ》が肴《さかな》だったというが、二人とも長酒で、そんな場合はいつも徹宵《てっしょう》飲み明かすのが習慣だったので、娘さんは肴に心配をして近所の乾物屋から干鰯を買って準備していたというね。
 ところがその晩に限ってどうしたものか二人とも、宵の口から口論を初めて、十一時頃にはモウ寝てしまった。斎藤さんがこの西木獣医家の蒲団に寝たのはこの時が初めてだったそうだがね。
 議論は何でも国体に関する問題で、政党は必要だ。イヤ。不必要だ……といったような二人でよく遣る議論だったそうだが何しろ二人とも酔っ払っている上に、聞いていたのが若い娘さんだったもんだからドッチがドウ主張し合っているんだか、だんだんわからなくなってしまった。しまいには、お互の家庭教育の攻撃し合いになってソンナ奴の娘は貰わん。遣らん……というところから取っ組み合いになったので、仰天した娘さんが仲裁に這入って二人とも寝かし付けた。斎藤さんは近い処だから帰ると云ったが、ベロベロに酔っ払って危いので、ともかくもお迎えに奥さんが見えるまでという訳で欺《だま》して寝かし付けた。二人は寝てまでも「貴様は国賊だ」「何が国賊だ」と罵り合いながら睡ったというんだが、今も云う通り、若い娘さんが聞いたんだからね。その議論がドレ位の深刻さで闘わされたものか、わかりゃしないやね。

 ところがその夜中になって大変な事が持上った。天神髯の斎藤さんが、恐ろしく苦悶し初めてスバラシク吐瀉し続けて人事不省に陥った。熱は出ていないが見る見るうちに脈が悪くなって、ビクビクと痙攣《けいれん》を起して固くなってしまった。まだ息の在るうちに、その皮膚を獣医の西木さんが抓《つま》んでみたら全く弾力を失ってしまっていたというんだ。
 サア大変だ。コレラだというので、西木先生ステキに狼狽したんだね。時を移さず警察へ報告したので、B町中が忽ち引っくり返るような騒ぎだ。何しろB町は今秋の大演習の御野立所《おのたちじょ》になる筈だったんだからね。西木、斎藤の両家は勿論のこと、前の日に斎藤さんの診察を受けた患者の家も勿論のこと、ヌタの材料を売った魚屋から、斎藤さんが喰いもしない干鰯を売った乾物屋まで、疾風迅雷式に猛烈な消毒、出入禁止だ。全く飛んだ災難だね。
 ところが又、ここに一つ不思議というのは、その虎列剌《コレラ》の伝染系統が全くわからん。その当時はまだ夏の初めで、県下に虎列剌《コレラ》の虎《コ》の字も発生していなかった時分だ。斎藤さんも勿論、宅診、往診以外に遠くへ行った形跡はない、つまり所謂、無系統コレラ……天降り伝染という奴だね。
 不思議だ不思議だといううちに県の衛生試験所へまわった斎藤さんの吐瀉物について大変な報告がB町の警察署に来た。
「検鏡の結果コレラ菌を認めず。但し著明の酸性反応を認む」
 西洋の名探偵だったらここで哄笑一番するところだがね……イヤ。モット前に危険を予知して斎藤さんに忠告していたかも知れないがね。
「内科医が、
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