ろしがって、外から雨戸を目張りしただけで消毒したらしく、家の中の品物が一つも動かしてなかったのが非常な天祐であった。薬局といっても裏口の横の納戸《なんど》みたいな四畳半の押入を利用したものに過ぎなかったが、そこの襖《ふすま》が半開きになっている。その鼻の先の中棚に直径一|寸《すん》五|分《ぶ》、高さ三寸位の茶色の薬瓶がタッタ一つ、向うの薬棚から取出したまま置いてある。白いレッテルには右から左へ横へ「吐酒石酸《としゅせきさん》」という活字が四個行列している。白い吐酒石の結晶が瓶の周囲にバラバラと零《こぼ》れ散らかっているのが何よりも先に眼に付いた。
 それを見た途端《とたん》に、ハハア、これは吐酒石酸を飲み過ぎたんだナ……と思った。
 吐酒石酸というのは毒薬自殺や何かの時に重宝《ちょうほう》な薬で、この薬をホンノちょっぴり人間に服《の》ませると、忽ち胃袋のドン底まで吐瀉して終《しま》うから毒がまわらないうちに助かるんだ。牛馬が毒草を喰った時なんかにも同じ理屈で使用される薬なんだが、その代りに分量を誤ると、実に急劇、猛烈な吐瀉を起すために体内の水分がグングン欠乏する。下痢をしない虎列剌《コレラ》と似たり寄ったりの症状で、心臓麻痺を起して死ぬんだ。獣医さんが虎列剌《コレラ》と診断したのは無理もない。実は上出来の方かも知れないがね。
 しかし本職の内科医の斎藤さんが、どうしてソンナに過量の吐酒石酸を服用したのか。よしんば酔っていたために分量を過《あやま》ったにしても……どうして吐酒石酸を使用する必要があったのか……又は、どうして飲まされる機会にぶつかったのか……といったような事実が吾輩には、どうしても想像出来ない。コイツには弱ったね。大酒を飲む人や、胃の悪い人の中にはここで……ハハア……そうかと首肯《うなず》く人が居るかも知れないが、天性の下戸《げこ》で、頗る上等の胃袋を持っている吾輩には、全く見当の付けようがないのだ。つまり大酒飲の習慣に対する高等常識が、その時の吾輩にはなかったんだね。

 大約三十分間も、その瓶と睨《にら》めっくらをしてボンヤリ考えていたっけが……。
 それから途方に暮れたまま、来るともなく台所に来て水甕《みずがめ》のまわりを見廻しているうちにヤットわかったね。水甕の上の杓子《しゃくし》や笊《ざる》を並べた棚の端に、重曹の瓶と匙《さじ》が一本置いてあるんだ。
 そいつを見ると疑問が一ペンに氷釈したよ。何でもない事なんだ。
 吾輩は直ぐに西木家を出て程近い警察の横の斎藤家を訪うた。刺《し》を通じて斎藤の後家さんに面会すると劈頭《へきとう》第一に質問をした。
「……大変に立ち入ったお尋ねごとですが、お亡くなりになった御主人は、お酒を呑み過ぎられますと、酒石酸と、重曹を一所《いっしょ》にお口に入れて、水を飲んで大きなゲップを出される習慣が、お在りになりはしませんでしたか」
 後家さんは痩せぎすの色の青い、多少ヒス的な感じのする品のいい婦人だった。可愛そうに最早《もはや》チャントした切髪姿で納まって御座ったが、吾輩の奇問には流石《さすが》にビックリしたらしく眼をパチパチさせたよ。
「まあ……どうして御存じで……主人はいつも御酒《ごしゅ》を頂きますたんびに重曹と、酒石酸を用いましたので……そうしないと二日酔をすると申しまして、御酒《ごしゅ》を頂きますたんびに……」
「それは夜中にお眼醒めになった時に、お一人でコッソリなさるのでしょう」
 後家さんはイヨイヨ驚いたらしく眼を丸くしたよ。
「……まあ……よく御存じで……」
「その酒石酸の瓶をチョット拝見さして頂けますまいか」
「ハイ。この瓶で御座います」
 といううちに後家さんは立上って、玄関横の薬局から白の結晶の詰まった茶色の瓶を持って来た。経《たて》一寸五分ぐらい、高さ三寸程……ちょうど西木家の吐酒石酸の瓶ぐらいの横腹に白いレッテルが貼ってあって、酒石酸と活字が三個右から左に並んでいる。後家さんは、それを吾輩の前に据えて、感慨無量という体《てい》で眼をしばたたいた。「これが何か、お調べのお役にでも立ちますので……」と云われた時には吾輩、気の毒とも何とも云いようがなかったね。
「イヤナニ……別に……ちょっと参考まで……」
 と云って逃げるように斎藤家を辞して往来に出るとホッとしたもんだが、返す返すも馬鹿馬鹿しい話さね。
 普通の内科医の処に在る吐酒石酸の瓶を見て見たまえ、高さ一寸かソコラの小さなものだ。これは人間に飲ませるのだから極く小量しか用意してないのだ。ところが図体《ずうたい》の大きい牛馬に飲ませるとなるとトテモ少々では利かないから獣医の処に在る吐酒石酸の瓶は相当に大きいのが用意して在る。ちょうど内科医の処に在る酒石酸の瓶ぐらいあるんだ。
 そいつを夜中に眼を醒ました、
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