ーツの上にのけぞった。
「……むむッ……チ……畜生ッ。もう……来……た……か……」
と切れ切れに叫びかけたが、その言葉尻にはヘンテコな節が付いて、流行《はやり》唄の末尾のように意味を成さないまま、わななきふるえつつ消え失せた……と思う間もなく、喰い縛った歯の間から凩《こがらし》のような音を立てて、泡まじりの血を噴き出した。
しかし品夫は依然として手を弛《ゆる》めなかった。相手の腕の力が抜けて来れば来るほど、スブスブスブと深くメスを刺し込んで行った。そうして大浪《おおなみ》を打つ患者の白いタオル寝巻の胸に、ムクムクムクと散り拡がって行く血の色を楽しむかのように、紅友禅の長襦袢の袖を、左手でだんだん高くまくり上げて、白い、透きとおるような二の腕を、力一パイにしなわせながら、ジロリジロリと前後左右を見まわしていたが、やがて眼の前の逞ましい胸が、一しきりモリモリモリと音を立てて反《そ》りかえって来たと思う間もなく、底深い、血腥《ちなまぐさ》い溜息と一所に、自然自然とピシャンコになって行くのを見ると品夫は、白い唇をシッカリと噛み締めたまま眼を細くして、メスを握り締めている自分の手首を凝視した。大きく、静かに、最後の呼吸を波打たせる相手の胸に、調子を合わせるかのように、彼女自身の呼吸を深く、深く、ゆるやかに張り拡げて行った。そうして相手の呼吸が全く絶えると同時に、彼女自身もピッタリと呼吸を止めて、彫像のように動かなくなった。
「……品夫ッ……」
という雷のような声が、廊下の方から飛び込んで来たのはその時であった。
ハッとした品夫は、一瞬間に身を退《ひ》いた。夥《おびただ》しい髪毛《かみのけ》を颯《さっ》と背後《うしろ》にはね除《の》けて、メスを握った右手を高く振り上げかけたが、白い服のまま仁王立ちになっている健策の真青な、引き歪《ゆが》められた顔を眼の前に見ると、急に身を反《そ》らして高らかに笑い出した。
「……ホホホホホホ。ホホホホあなた見ていらっしたの……ホホホホホホ。ステキだったでしょう……妾《わたし》……とうとう讐敵《かたき》を討ったのよ……」
品夫の手から辷《すべ》り落ちたメスが、床の上に垂直に突立った。同時に気が弛《ゆる》んだらしくグッタリとなった品夫は、両頬を真赤に染めて羞恥《はにかみ》ながら、健策の胸にしなだれかかった。血だらけの両手を白い診察服の襟にまわしながら、火のような眼をしてふり仰いだ。
「……ネ……わかったでしょう……。もう貴方と…………ても……いいのよ…………」
底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2000年10月11日公開
2006年3月16日修正
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