の余り夢中になって逃げ出した……そうしてお話しのような奇禍に遭《あ》われたのではなかったかと考えられるのです」
「ハハア……」
と健策はいよいよ不安らしくグッと唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
「……しかしその証拠は……」
「……イヤ。証拠と云われると実に当惑するのですが……要するにこれは私の直感なのですから……しかし実松氏が、この甥の当九郎を愛しておられた程度が、普通の人情を超越していたらしい事実や、全財産を現金にして絶対秘密の場所に隠していたところなどを見ると、実松氏はどうしても、或る一種の超自然的な頭脳の持主としか思われないのです。従ってそうした脅迫観念に囚《とら》われ易い……」
「……イヤ……解りました……」
こう云いながら相手の話を遮《さえぎ》り止めた健策は、急に長椅子の上に居住居《いずまい》を正した。踏みはだけた膝の上に両肱《りょうひじ》を突張って、二三度大きく唾を嚥《の》み込むうちに、みるみる蒼白《まっさお》な顔になりながら、物凄い眼《まなこ》で相手を睨み付けた。唇をわななかせつつ肺腑《はいふ》を絞るような声を出した。
「……イヤ。よくわかりました。今まで全く気が付かずにいましたが、貴方の御意見を聞いているうちに何もかも解ってしまいました。……貴方は実松氏の超常識的な性格から割り出して、当九郎の無罪を主張していられるようです。つまり実松氏は……品夫の父は元来、深刻な精神病的の素質を遺伝している、変態的な性格の所有者であった。だから月の光りの強い、雪の真白い山の上で、一種の幻覚錯覚に陥って、自分でも予期しない自殺同様の、非業《ひごう》の最期を遂《と》げたもの……と主張しておられるのでしょう」
「イヤ。ちょっとお待ち下さい」
と黒木が片手を揚げて制しかけた。健策の語気が、だんだん高まって来るのを怖れるかのように……。しかし健策はひるまなかった。黒木と同時に片手を揚げながら、なおも身体《からだ》を乗り出した。
「イヤ。お待ち下さい。待って下さい。貴方は御存じないのです。そうした主張で、当九郎の無罪が証明出来るものと思っていられるようですが、そうした説明ならば、僕の方が専門なのです。いいですか。……今お話のような事実を、有名なデビーヌ式の素質遺伝の原則と照し合わせると、却《かえ》って正反対の結論が生まれて来るのですよ。……美青年当九郎は表面上柔和な人間に見えながら、その底には、やはり実松氏と同様の超自然的な性格を隠し持っていた……しかも大恩ある叔父を執念深く附け狙って殺すというような残忍冷酷を極めた、非良心的な先天性の所有者であり得た事が、科学的に証明されて来るのですよ。……いいですか……又、実松氏が極端な変人であると同時に、血腥《ちなまぐさ》い殺生《せっしょう》を唯一の趣味としていた因縁も、その血腥い殺生行為のアトで、異常な性的の昂奮を見せるという、変態的な性格も、その故郷の血族の絶滅している理由も……そうして現在の品夫が、二十年|前《ぜん》の殺人犯人に凝視されているという脅迫観念や、復讐をしなければ止まぬというような偏執狂《モノマニア》式の空想に囚《とら》われている原因も……何もかもがこの事件の核心となっているタッタ一ツの事実によって説明され得る……つまりT塚村の実松家は、ヒドイ精神病の系統であったと……」
相手の悽愴《せいそう》たる語気に呑まれて、急に赤くなり、又、青くなりつつ眼を瞠《みは》っていた黒木は、この時ヤッとの事でヘドモド坐り直した。両手をあげて迸《ほとばし》り出る健策の言葉を押し止めた。
「……イヤ……お待ち……お待ち下さい。ソ……それは貴方の誤解です。私はただ品夫さんのお父さんの事だけを申しましたので……」
「……否《いや》……チットも構いません。公然と僕達の結婚に反対されても構いません」
健策は断乎《だんこ》とした態度でこう云い切った。云い知れぬ昂奮に全身を震わせながら……。
「……たといドンナ事があろうとも、僕は品夫を殺さない決心ですから……品夫を見棄てる気は毛頭《もうとう》無いのですから、何でもハッキリ云って下さい。……実松一家は、そんな恐ろしい精神病の遺伝系統のために、その故郷で絶滅してしまっている。そうして僅《わず》かに残った一滴の血が、めぐりめぐって現在藤沢家を亡ぼすべく流れ込もうとしている。その一滴の血が……品夫だと云われるのですね」
「……………」
「藤沢家のためには、品夫を見殺しにした方が利益だと云われるのですね……貴方は……」
「……………」
「……………」
二人は青い顔を見合わせたまま、石のように凝固してしまった。……ちょうどその時に、扉《ドア》の外で何か倒れたような音がしたので……。
二人はハッとしながら同時に立ち上った。扉《ドア》に近い健策が大急ぎで把手《ハンドル》を引くと扉《ドア》の外の暗いリノリウムの床に、白い服を着た品夫が横たわっていた。
健策は無言のまま跪《ひざまず》いて脈を取った。そうして強いて落ちついた態度で、傍に突立っている黒木の顔を見上げると、如何《いか》にも苦々しげに頭を一つ下げた。
「……すみませんが……診察室の扉《と》を開けてくれませんか……」
その夜の三時をすこし廻った頃であった。
品夫は作りつけの人形のように伏せていた長い睫《まつげ》を、静かに二三度|上下《うえした》に動かすと、パッチリと眼を見開いた。そうして黒い瞳を空虚《うつろ》のように瞠《みは》りながら、仄暗《ほのくら》い座敷の天井板を永い事見つめていた。
それから瞬《まばたき》一つせずに、頭をソロソロと左右に傾けて、白いずくめの寝具と、解《と》かし流されたまま、枕の左右に乱れかかっている自分の髪毛《かみのけ》を見た。それから、黒い風呂敷を冠せられている枕元の電気スタンド……床の間に自分が生《い》けた水仙の花……その横の床柱に、白い診察着のまま倚《よ》りかかって腕を組んで睡っている健策の顔……その前の桐の丸火鉢の上で、仄《ほの》かに湯気を吐いている鉄瓶……その蔭に掻巻《かいまき》を冠ったまま突伏している看護婦……そんなものの薄暗い姿を一ツ一ツに見まわした彼女は、その表情をすこしも動かさないまま、又、もとの通りにあおのけになって、しずかに眼を閉じて行った。
室の中は又も、雪の夜の静寂に帰った。シンシンと鳴る鉄瓶の音と、スヤスヤという看護婦の寝息と、雨戸の外でチョロチョロと樋《とい》を伝い落ちる雪水の音ばかりになった。
しかし品夫は、ほんとうに眠ったのではなかった。やがて眼を閉じたまま、唇の左右に何ともいえない冷たい微笑を浮かべたと思うと、瞼をウッスリと開きながら、ソロソロと起き上った。両手を前にさし伸べて……手探りをするように身体《からだ》をうねうねと蜒《うね》らして……中心を取りかねているようであったが、そのうちに両手で夜具を押えつけると、スックリと寝床の上に立ち上った。
彼女はいつもねまき[#「ねまき」に傍点]にしている、十六七歳時代の紅友禅《べにゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》を着せられていた。その上から紫|扱帯《しごき》の古ぼけたのが一すじ、グルグルと巻き付けてあるきりであったが、そのふくらんだ自分の胸に取り縋《すが》るように、両方の掌《てのひら》をシッカリと押し当てて、素足のまま寝床を降りると、スラスラと畳の上を渡って、芭蕉布《ばしょうふ》張りの襖《ふすま》に手をかけた。その時に、畳に引きはえた襦袢の裾《すそ》が、枕元に近いお盆の上の注射器に触れてカラカラと音を立てた。それにつれて、睡っていた健策が、すこしばかり大きな寝息をしたが、品夫は別に見向きもせず、足を止めようともしなかった。
芭蕉布の襖が音もなく開くと、寒い風が一しきりスースーと流れ込んで来た。しかし品夫は、そのあとを閉める気も無いらしく、次の間の障子を今一つスーと開くと、そのまま明るい廊下へ出た。その廊下の一方は硝子《ガラス》雨戸になっていて、黒々と拭き込んだ板張りにも、外のお庭の雪の植込みの上にも、タッタ今晴れ渡ったばかりのニッケル色の空から、スバラシイ満月の光りがギラギラとふるえ落ちていたが、品夫は、やはり、そんな光景には眼もくれなかった。恰《あたか》も何者かに導かれるように、半開きの瞳の前の冷たい空間を凝視しつつ、一直線に長い廊下を渡りつくしたが、その行き止まりに在る青ペンキ塗りの扉《ドア》を開いて、薬局の廊下に這入ると、真暗なリノリウムの上を、やはり一直線に進んだらしく、間もなく突き当りの扉《ドア》を押す音がした……と……やがて診察室の中央に吊るされた電球が、眼も眩《くら》むほど輝き出した。
暖かい奥座敷から、急に氷点以下の寒い処に出て来たせいか、品夫の血色は全く無くなっていた。顔も手足も、それこそ雪のように真白く透きとおっていたが、それが黒い髪を長々とうしろへ垂らして、燃え立つような長襦袢を裾も露《あら》わに引きはえつつ、青白い光線をふり仰いで眼を細くした姿は淫《みだ》りがましいと云おうか、神々《こうごう》しいと形容しようか。人間の眼に触れてはならぬ妖艶《なまめか》しさの極み……そのものの姿であった。
しかし、雪に鎖《とざ》された藤沢病院の、深夜の診察室に、こんな姿が立ち現われていようことは、誰一人思い及び得よう筈が無かった。すべては零下何度の空気に包まれて、シンカンと寝静まっていた。そのような静けさの中にスックリと立ち止まった品夫は、いかにも眩《まぶ》しそうなウッスリした眼つきで、そこいらを一渡り見まわしていたが、間もなく室《へや》の隅に置いてある四方硝子張りの戸棚に眼をつけると、ヒタヒタと歩み寄って、重たい硝子戸を半分ほど開いた。そこから白い片手を突込んで、方形の瀬戸引きバットに並んでいる数十のメスをあれかこれかと選んでいたが、やがてそのバットの外に、タッタ一つ投げ出してある大型の一本を取り上げた。
それは小さい薙刀《なぎなた》の形をした薄ッペラなもので、普通の外科には必要の無い、屍体解剖用の円刃刀《えんじんとう》と称する、一番大きいメスであった。この病院では何か外の目的に使われているらしく、柄《え》の近くには黒い銹《さび》の痕跡《あと》さえ見えていたが、彼女はそれを右手の指の中に、逆手《さかて》にシッカリと握り込むと、背後《うしろ》の青白い光線に翳《かざ》しながら二三度空中に振りまわして、キラキラと小さな稲妻を閃《ひら》めかした。それを見上げながら品夫はニッコリと、小児《こども》のような無邪気な微笑を浮かべたが、そのままメスを右手に捧げて、左手で両袖を抱えつつ、開いたままの扉《ドア》の間から、又もリノリウムの廊下に辷《すべ》り出た……と……今度は左に折れて、泉水の上から、病室の方へ抜ける渡殿《わたどの》の薄暗がりを、ホノボノと足探《あしさぐ》りにして、第一の横廊下を左に折れ曲ったが、やがて、その行き詰まりに在る特等病室の前に来た。そうして、やはり何の躊躇《ちゅうちょ》もなく真鍮《しんちゅう》のノッブを引いた。
十|燭《しょく》の電燈《でんき》に照らされた鉄の寝台《ベッド》の上には、白い蒲団を頭から冠っている人間の姿がムックリと浮き上っていた。その上にメスを捧げたまま、品夫は何かしらジッと考え込んでいるようであったが、やがて上の蒲団を容赦なく引き除《の》けると、髪毛《かみのけ》を濛《もう》と空中に渦巻かせて、寝床《ベッド》の中に倒れ込むようにメスを振りおろした。その枕元から、白い散薬の包紙が一枚、ヒラヒラと床の上に舞い落ちた。
「ムム……オオッ……」と夢のような叫び声がして、白いタオル寝巻に包まれた、青黒い巨大な肉体が起き上りかけた。それはイガ栗頭の黒木繁であったが、毛ムクジャラの両腕を引き曲げて、寝巻の胸に沈み込んだメスの柄を、品夫の右腕と一緒に無手《むず》と掴んだ。
……しかし、それをドウしようというような力はもう無かった。血走った白眼を剥《む》き出して、相手の顔をクワッと覗き込んだが、乱れた髪毛の中を一眼見ると、そのまま両眼をシッカリと閉じて、シ
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