から後《のち》暫くの間、殺生は無論の事、本職の獣医の方も放《ほ》ったらかしにして、毎日のようにK市の遊廓に入《い》り浸《びた》ったものだそうで、お磯婆さんや、養父《ちち》の玄洋が泣いて諫《いさ》めても、頑として聴き入れなかったという事です」
「……いかにも……。そんな性格の人は気の狭いものですからね。ほかに仕様がなかったのでしょう」
「ところがです……ところが、その三月の何日とかは、ちょうど今日のような大雪が降った揚句《あげく》だったそうですが、その夕方の事、真赤に酔っ払った源次郎氏が雪だらけの姿で、久し振りに自分の家に帰って来ると、茶漬を二三杯掻き込んだまま、お磯が敷いた寝床にもぐり込んでグーグーと眠ってしまったそうです」
「話も何もせずにですか」
「無論、寝るが寝るまで一言も口を利かなかったそうです。これはいつもの事だったそうで……ですからお磯婆さんも別に怪しまなかったばかりでなく、久し振りに枕を高くして品夫と添寝《そいね》をしたのだそうですが、あくる朝眼を醒ましてみると源次郎氏の姿が見えない。蒲団《ふとん》は藻抜《もぬ》けの空《から》になっているし、台所の戸口が一パイに開け放されて月あかりが映《さ》しているので、どこに行ったのか知らんと家の内外《うちそと》を見まわったが、出て行ったあとで又、雪が降ったらしく、足跡も何も見えなかった。それから押入れを開けてみると、自慢のレミントンの二連銃と一緒に、狩猟《やまゆき》の道具が消え失せている。台所を覗いてみると、冷飯《ひやめし》を弁当に詰めて行った形跡があるという訳で、初めて狩猟《かり》に行った事がわかったのだそうです」
「……ヘエ……どうしてそう突然に狩猟《かり》に出かけたのでしょう」
「それがです。それがやはり甥の当九郎が誘《おび》き出したのだ……という説もあったそうですが、しかし一方に源次郎氏はいつでも雪さえ見れば山に出かける習慣があったので、この時も珍らしい大雪を見かけて堪《たま》らなくなって出かけたんだろう……という意見の方が有力だったそうです。……一方には又、そうした習慣があるのを当九郎も知っていたので、そこを狙って仕事をしたんだろうという説もあったそうですが、何しろ本人が唖《おし》に近いくらい無口な性質《たち》だったので、何一つわからず仕舞《じま》いになった訳ですが」
「その前に手紙か何か来た形跡は無かったでしょうか……甥の当九郎から……」
「お磯の記憶によると無かったそうです。……あとで家探《やさが》しまでしてみたそうですが……」
「……成る程。それから……」
「それから先は頗《すこぶ》る簡単です。あのS岳峠の一本榎《いっぽんえのき》という平地《たいら》の一角に在る二丈ばかりの崖から、谷川に墜《お》ちて死んでいる実松氏の屍体《したい》を、夜が明けてから通りかかった兎追いの学生連中が発見して、村の駐在所に報告したので、大騒ぎになったものだそうで……死因は谷川に墜ちた際に、岩角で後頭部を砕いたためで、外には些《すこ》しも異状を認められなかったそうです。これはその屍体を診察した養父《ちち》の話ですがね……」
「成る程……しかし屍体以外には……」
「屍体以外には、ポケットの中に油紙に包んだ巻煙草《まきたばこ》の袋と、マッチと、焼いた鯣《するめ》が一枚這入っていたそうで、弁当箱の中味や、水筒の酒も減っていなかったそうです。……それからもう一つ胴巻の中から、二円何十銭入りの蟇口《がまぐち》が一個出て来たそうですが、それが天にも地にも実松家の最後の財産だったそうで、源次郎氏がどこにか隠していた筈の現金は、あとかたもなく消え失せていたそうです。……尤もこれは事件後に村外れに在った源次郎氏の自宅を土台石まで引っくり返して調べた結果、判明した事実だそうですが……」
「成る程……それで殺人の動機が成立した訳ですね」
「そうなんです。尤もお金の多寡《たか》はハッキリわかりませんがね……それから、もう一つ重要なのは、屍体の左手にシッカリと握っていたレミントンの二連銃の中に、発射したままの散弾の薬莢《やっきょう》が二発とも残っていた事だそうです」
「ハハア……詰め換えないままにですな」
「そうです。ほかの弾丸《たま》は、弾丸帯《たまおび》にキチンと並んでいて、一発も撃った形跡が無いし、弁当や水筒にも手がつけてないところを見ると、源次郎氏は、あの一本榎の平地《たいら》へ登り着くと間もなく、何かに向って二発の散弾を発射した。そうして後を詰めかえる間もなく谷川に転げ落ちて死んだものらしいと云うのです」
「ヘー……その辺がどうも可笑《おか》しいようですな」
「おかしいんです……源次郎氏は、今もお話した通りあの辺の案内ならトテモ詳しい筈ですからね。おまけに月夜の雪の中ですから、足場は明るいにきまっているし、余程の強敵に出会って狼狽《ろうばい》でもしなければ、そんな目に会う筈は無いと云うのです」
「いかにも……その考えは間違い無さそうですな」
「僕にもそう思えるのです。しかし何しろ、その屍体の上には、岩と一《ひ》と続きに、雪がまん丸く積っていた位で、附近には何の足跡も無いために、犯人の手がかりが発見出来なくて困ったそうです」
「そうですねえ。あとから雪が降らなかったら何かしら面白いことが発見出来たかも知れませんが……」
「そうです。尤も雪というものは人間《じんげん》の足跡から先に消え初めるものだと村の猟師が云ったとかいうので、雪解けを待って今一度、現場附近を調べたそうですが、源次郎氏が通る前にS岳峠を越えた者は一人や二人じゃなかったらしいので……おまけに現場附近は、屍体を発見した学生連に踏み荒されているので、沢山の足跡が出るには出たそうですが、いよいよ見当が附かなくなるばかりだったそうです」
「……すると……つまりその捜索の結果は無効だったのですね」
「ええ……全然|得《う》るところ無しで、K町の新聞が盛んに警察の無能をタタイたものだそうです。……しかしそのうちに乳飲児《ちのみご》の品夫が、お磯婆さんと一緒に此家《ここ》に引き取られて来るし、仮埋葬《かりまいそう》になっていた実松源次郎氏の遺骸も、正式に葬儀が行われるしで、事件は一先《ひとま》ず落着の形になったらしいのです。そうして色んな噂が立ったり消えたりしているうちに二十年の歳月《としつき》が流れて今日《こんにち》に到った訳で……いわば品夫は、そうした二十年|前《ぜん》の惨劇がこの村に生み残した、唯一の記念と云ってもいい身の上なんです」
 こう云って唾を嚥《の》み込んだ健策の眉の間には、流石《さすが》に一抹の悲痛の色が流れた。
「なるほど……それでは村の人が色んな噂を立てる筈ですね」
 と黒木も憂鬱にうなずいた。けれどもそのうちに健策は、又も昂奮《こうふん》して来たらしく、心持顔を赤めながら語気を強めて云った。
「しかし誰が何と云っても、僕等二人の事は養父《ちち》が決定《きめ》て行った事ですから、絶対に動かす事は出来ない訳です……今更村の者の噂だの、親類の蔭口だのを問題にしちゃ、養父《ちち》の位牌に対して相済みませんし、第一品夫自身がトテモ可哀想なものになるのです。彼女《あれ》の味方になっていた養父《ちち》もお磯婆さんも死んでしまって、今では全くの一人ぽっちになっているんですからね」
「御尤《ごもっと》もです」
 と黒木は又も深い溜息をしながらうなずいた。そうして気を換えるように云った。
「……ところで……これはお尋ねする迄も無い事ですが、品夫さんは実のお父様が亡くなられた時の事をスッカリ聞いておいでになるでしょうね」
「それは無論です。うちの養父母《おやたち》や、お磯婆さんから飽きる程繰り返して聞かされているでしょうし、又、村の者の噂や何かも直接間接に耳にしている筈ですから、恐らく誰よりも詳しく知っているでしょう。……とにもかくにも復讐をするという位ですからね……ハハハハ……」
「いかにも……しかしその復讐をされるというのは……どんな手段を取られるおつもりなのでしょう……」
「さあ……そこ迄は聞いていませんがね。アンマリ馬鹿馬鹿しい話ですから……それよりも、そんな事を云い出す品夫の気もちが、第一わからなくて困っているんです……ですから、こんな内輪話《うちわばなし》をお打ち明けした訳なんですが……」
「……成る程……」
 と黒木は火鉢の灰を凝視《みつ》めたままうなずいた。そうして暫《しばら》く何か考えているようであったが、やがて静かに顔をあげると、依然として遠慮勝ちに問うた。
「それから……これも余計な差し出口ですが、品夫さんの戸籍謄本《こせきとうほん》は取って御覧になりましたか?」
「ハア。養父《ちち》が取っておいたのが一枚ありますが、実松源次郎の長女品夫と在るだけで、全く身よりたよりの無い孤児です。……三四年|前《ぜん》にわざわざC県まで人を遣って調べた事もあるそうですが、ずっと前から故郷に親戚が一人も居なくなっていたのは事実で、当九郎の両親の名前も知っている者が居ない位だったそうです……しかし、それがこの事件と何か関係があるのですか?」
「……イヤ……関係がある……という訳でもないのですが……」
 黒木は何故か言葉尻を濁《にご》すと、前よりも一層憂鬱な態度で、腕を深く組みながら考え込んだ。その黒眼鏡の下の無表情な顔色を、健策はさり気なく眺めていたが、やがて片膝を抱え上げながら、所在なさそうにゆすぶり初めた。
「黒木さん。遠慮なさらなくともいいんですよ。……貴方《あなた》とは、もう久しい間御懇意に願っていますし、ちょうど品夫の父親の二十一回忌に当る年に、こんな大雪が降るのも、何かの因縁《いんねん》だろうと思ってコンなお話をするんですからね……御腹蔵の無いところを打ち明けて下すった方が、却《かえ》って功徳《くどく》になるんですよ……ハハハハハ」
 こう云ううちに健策は全く昂奮が静まったらしくノンビリした顔色になった。同時にいくらか話に飽きが来たらしく、あおむいて小さな欠伸《あくび》を出しかけた。しかし黒木は依然として表情を動かさなかった。なおも腕を深く組んで何事か考えまわしているらしかったが、そのうちに両手で眼鏡をかけ直しながら、軽い溜息《ためいき》と一緒につぶやいた。
「サア……それをお話していいか……わるいか……」
「ハハハハハ。お話出来なければ無理に伺わなくともいいんですがね。……元来これは僕等二人の間に、秘密にしておくべき問題なんですから……しかし、くどいようですが、たとい品夫がドンナ身の上の女であろうとも、二人を結びつけている死人の意志は、絶対に動かす事が出来ない訳ですからね。よしんば品夫のためにこの家が滅亡するような事があっても、それが故人の希望なんですから、その辺の御心配は御無用ですよ……ただ参考のために承っておくに過ぎないのですからね。ハハハハハ、こう云っちゃ失礼かも知れませんが……」
 健策は相手を皮肉るでもなくこう云って笑うと、思い切って大きな欠伸《あくび》を一つした。硝子《ガラス》窓越しにチラチラ光る綿雪を見遣りながら……。
「……成る程……それでは……私の意見《かんがえ》を……申してみますが……」
 黒木はやっと決心したらしく、窮屈そうにこう云いながら、火鉢の横に転がっている大きな湯呑を取り上げて白湯《ゆ》を注いだ。すると健策もそれに倣《なら》って、長椅子の下から硝子コップを取り上げた。
 二人の間には又も新らしい談話気分が漲《みなぎ》った。健策はフウフウと湯気を吹きながら、剽軽《ひょうきん》な調子で云った。
「……どうか願います。品夫の一生の浮沈にかかわる事ですから……」
 しかし黒木はどこまでも真面目な、無表情のうちにうなずいた。湯呑を片わきへ置きながら……。
「イヤ……重々御尤もです。それじゃ、お話できるだけ、してみましょうが、その前にもう一つお尋ねしたい事がありますので……」
 健策もコップを畳の上に置きつつ、気軽にうなずいた。
「ハア。何なりと……」
「……イヤ。ほかでもありません。つまり品夫さん
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