るし、余程の強敵に出会って狼狽《ろうばい》でもしなければ、そんな目に会う筈は無いと云うのです」
「いかにも……その考えは間違い無さそうですな」
「僕にもそう思えるのです。しかし何しろ、その屍体の上には、岩と一《ひ》と続きに、雪がまん丸く積っていた位で、附近には何の足跡も無いために、犯人の手がかりが発見出来なくて困ったそうです」
「そうですねえ。あとから雪が降らなかったら何かしら面白いことが発見出来たかも知れませんが……」
「そうです。尤も雪というものは人間《じんげん》の足跡から先に消え初めるものだと村の猟師が云ったとかいうので、雪解けを待って今一度、現場附近を調べたそうですが、源次郎氏が通る前にS岳峠を越えた者は一人や二人じゃなかったらしいので……おまけに現場附近は、屍体を発見した学生連に踏み荒されているので、沢山の足跡が出るには出たそうですが、いよいよ見当が附かなくなるばかりだったそうです」
「……すると……つまりその捜索の結果は無効だったのですね」
「ええ……全然|得《う》るところ無しで、K町の新聞が盛んに警察の無能をタタイたものだそうです。……しかしそのうちに乳飲児《ちのみご》の品夫が、お磯婆さんと一緒に此家《ここ》に引き取られて来るし、仮埋葬《かりまいそう》になっていた実松源次郎氏の遺骸も、正式に葬儀が行われるしで、事件は一先《ひとま》ず落着の形になったらしいのです。そうして色んな噂が立ったり消えたりしているうちに二十年の歳月《としつき》が流れて今日《こんにち》に到った訳で……いわば品夫は、そうした二十年|前《ぜん》の惨劇がこの村に生み残した、唯一の記念と云ってもいい身の上なんです」
こう云って唾を嚥《の》み込んだ健策の眉の間には、流石《さすが》に一抹の悲痛の色が流れた。
「なるほど……それでは村の人が色んな噂を立てる筈ですね」
と黒木も憂鬱にうなずいた。けれどもそのうちに健策は、又も昂奮《こうふん》して来たらしく、心持顔を赤めながら語気を強めて云った。
「しかし誰が何と云っても、僕等二人の事は養父《ちち》が決定《きめ》て行った事ですから、絶対に動かす事は出来ない訳です……今更村の者の噂だの、親類の蔭口だのを問題にしちゃ、養父《ちち》の位牌に対して相済みませんし、第一品夫自身がトテモ可哀想なものになるのです。彼女《あれ》の味方になっていた養父《ちち》もお磯婆さんも死んでしまって、今では全くの一人ぽっちになっているんですからね」
「御尤《ごもっと》もです」
と黒木は又も深い溜息をしながらうなずいた。そうして気を換えるように云った。
「……ところで……これはお尋ねする迄も無い事ですが、品夫さんは実のお父様が亡くなられた時の事をスッカリ聞いておいでになるでしょうね」
「それは無論です。うちの養父母《おやたち》や、お磯婆さんから飽きる程繰り返して聞かされているでしょうし、又、村の者の噂や何かも直接間接に耳にしている筈ですから、恐らく誰よりも詳しく知っているでしょう。……とにもかくにも復讐をするという位ですからね……ハハハハ……」
「いかにも……しかしその復讐をされるというのは……どんな手段を取られるおつもりなのでしょう……」
「さあ……そこ迄は聞いていませんがね。アンマリ馬鹿馬鹿しい話ですから……それよりも、そんな事を云い出す品夫の気もちが、第一わからなくて困っているんです……ですから、こんな内輪話《うちわばなし》をお打ち明けした訳なんですが……」
「……成る程……」
と黒木は火鉢の灰を凝視《みつ》めたままうなずいた。そうして暫《しばら》く何か考えているようであったが、やがて静かに顔をあげると、依然として遠慮勝ちに問うた。
「それから……これも余計な差し出口ですが、品夫さんの戸籍謄本《こせきとうほん》は取って御覧になりましたか?」
「ハア。養父《ちち》が取っておいたのが一枚ありますが、実松源次郎の長女品夫と在るだけで、全く身よりたよりの無い孤児です。……三四年|前《ぜん》にわざわざC県まで人を遣って調べた事もあるそうですが、ずっと前から故郷に親戚が一人も居なくなっていたのは事実で、当九郎の両親の名前も知っている者が居ない位だったそうです……しかし、それがこの事件と何か関係があるのですか?」
「……イヤ……関係がある……という訳でもないのですが……」
黒木は何故か言葉尻を濁《にご》すと、前よりも一層憂鬱な態度で、腕を深く組みながら考え込んだ。その黒眼鏡の下の無表情な顔色を、健策はさり気なく眺めていたが、やがて片膝を抱え上げながら、所在なさそうにゆすぶり初めた。
「黒木さん。遠慮なさらなくともいいんですよ。……貴方《あなた》とは、もう久しい間御懇意に願っていますし、ちょうど品夫の父親の二十一回忌に当る年に、こんな大雪が降
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