父杉山茂丸を語る
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駒下駄《こまげた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)福岡市|住吉《すみよし》に住んでいた
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白ッポイ着物に青い博多織の帯を前下りに締めて紋付の羽織を着て、素足に駒下駄《こまげた》を穿《は》いた父の姿が何よりも先に眼に浮かぶ。その父は頭の毛をクシャクシャにして、黒い関羽鬚《かんうひげ》を渦巻かせていた。
筆者は幼少から病弱で、記憶力が強かったらしい。満二歳の時に見た博多駅の開通式の光景を故老に話し、その夜が満月であったと断言して、人を驚かした事がある位だから……。
だからそうした父の印象も筆者の二歳か三歳頃の印象と考えていいらしい。父が二十七八歳で筆者の生地福岡市|住吉《すみよし》に住んでいた頃である。この事を母に話したら、その通りに間違いないが、帯の色が青かったかどうかは、お前ほどハッキリ記憶していない、お祖父《じい》様の帯が青かったからその思い違いではないかと云った。
その父が三匹の馬の絵を描《か》いた小さな傘を買って来てくれた。すると間もなく雨が降り出したので、その傘をさしてお庭に出ると云ったら、母が風邪を引くと云って無理に止めた。筆者は、その「風邪」なるものの意味がわからないので大いに泣いて駄々を捏《こ》ねたらしく、間もなく許可《ゆる》されて跣足《はだし》で庭に降りると、雨垂れ落《おち》の水を足で泄《たた》えたり蟇《ひき》を蹴飛ばしたりして大いに喜んだ。時々|翳《かざ》している傘の絵を見て、馬の走って行く方向にクルクル廻わしているところへ、浴衣がけの父がノッソリ縁側に出て来て、傘の上から問うた。
「それは何の絵けエ」
弾力のある柔和な声であった。
奥の八畳の座敷中央に火鉢と座布団があって、その上にお祖父様が座っておられた。大変に憤《おこ》った怖い顔をして右手に、総鉄張り、梅の花の銀|象眼《ぞうがん》の煙管《きせる》を持っておられた。その前に父が両手を突いて、お祖父様のお説教を聞いているのを、私はお庭の植込みの中からソーッと覗いていた。
その中《うち》、突然にお祖父様の右手が揚《あ》がったと思うと、煙管が父のモジャモジャした頭の中央に打突《ぶつ》かってケシ飛んだ。それが眼にも止まらない早さだったのでビックリして見ている中《うち》に、父のモジャモジャ頭の中から真赤な滴りがポタリポタリと糸を引いて畳の上に落ちて流れ拡がり初めた。しかし父は両手を突いたままジッとして動かなかった。
お祖父様は、座布団の上から手を伸ばして、くの字型に曲った鉄張り銀象眼の煙管を取上げ、父の眼の前に投げ出された。
「真直《まっす》ぐめて来い(モット折檻してやるから真直にして来いという意味)」
と激しい声で大喝された。
父は恭《うやうや》しく一礼して煙管を拾って立上った。その血だらけの青い顔が、悠々と座敷を出て行くところで、私の記憶は断絶している。多分泣き出したのであろう。
それが何事であったかは、むろんわからなかったし、後《のち》になって父に聞いてみる気も起らなかった。
父は十六の年に、お祖父様を説伏《ときふ》せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出《い》でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈《さんれつ》なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子《あかご》が猛獣の檻《おり》の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍《はっか》の惨毒から救い出すためには、渺《びょう》たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」
その時はまだ私が生まれていない前だったから、果してこの通りの事を云ったかどうか保証の限りでないが、その後《のち》の父は正しく前述の通りの覚悟で東奔西走していたし、お祖父様やお祖母《ばあ》様も、母までも、その覚悟で、あらん限りの貧乏と闘いつつ留守居していた事を、私は明らかに回想する事が出来る。なつかしい、恨めしい、恐ろしい、ありがたい父であった。
父は或る時、お祖父様に舶来の洋傘《こうもり》のお土産を持って来て差上げた。それは銀の柄の処のボタンを押すとバネ仕掛でパッと拡がるようになっていた
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