ので欲しくてたまらず、コッソリ持出して廊下でボタンを押してみたが、どうしても開かないので、失望して、又ソット、モトの押入れに入れた。何だか恐ろしかったので、逃げるように表へ出た。
又或る時、やはりお祖父様に、鼈甲縁《べっこうぶち》の折畳《おりたたみ》眼鏡を持って来て差上げた。これも、その折畳まり工合《ぐあい》が面白くて不思議なので欲しくてたまらず、そっと持出して引っぱってみる中《うち》に壊れてしまったらしい。お祖母様に大変に叱られた。
又或る時、父は自分が東京から冠《かぶ》って来た臘虎《らっこ》の頭巾《ずきん》帽子をお祖父様に差上げた。お祖父様は大層お喜びになって、御自分でお冠りになり、それから私に冠せてアハハハと大きな声でお笑いになった。
私は眼の前が真暗になった上に、臘虎の皮特有の妙な臭気がしたので直ぐに脱いで投棄てたように思う。
その時に父はコンナ話を、お祖父様にした……と後《のち》になって私に話した。
「あの帽子は東京で一番|高価《たか》いゼイタクなものだったので、大得意で故郷に錦《にしき》を飾るつもりで冠って来たものです。染得《そめえ》たり西湖柳色の衣《い》というところですよ。然るにだんだんと故郷に近づくに連れてあの帽子が気になりました。在郷の同志が、身動きもならぬ程貧乏し、落魄《らくはく》している顔付きを思い出すに連れて、十円もする帽子を大得意で帰って来る自分の心理状態が恥かしくて、たまらなくなりましたから、汽車が博多駅に着く前に折畳んで懐《ふところ》に入れて、知人に会わぬようにコソコソと只今帰って参りました。途中でこの帽子をドウ仕末しようかと考えましたが、結局アナタ(お祖父様)に差上るよりほかに道がないと気が付きました。アナタに差上るのならばドンナに身分不相応なものでも恥かしくないことが、わかると同時に、日本の国体のありがたさがイヨイヨハッキリと心に映じました。人間はエラクなると増長したくなるものです。栄耀栄華《えいようえいが》をしたくなるものです。しかも、それが威張れば威張るほどツマラヌ奴に見えて来るし、栄耀をすればする程、自分の恥を晒《さら》すことになるものですが、不思議なことに、ドンナに身分不相応な事でも、天子様と、神様と、親様の御為《おんため》にする事なら、決して恥かしくないことがわかりました。日本人たる者は、天子様と、神様と、親様のためと、この三つに限って、無限のゼイタクを許されている訳です。私はこの十円の帽子のお蔭で、大きな悟りを開く事が出来ました。その記念と思ってドウゾこの帽子を冠って下さい」
お祖父様は、その後《のち》、前記の洋傘《こうもり》と、鼈甲縁の折畳眼鏡と、ラッコの帽子を大自慢にして外出されるようになった。そうして到る処で父の自慢話を初められるのを、いつもお供していた私は、子供心に又初まったと思い思い聞いていた。
但「染め得たり西湖、柳色の衣」という一句は、たしか唐詩選の中に在ると思っているが、まだ調べていない。意味も何もわからないまま、口調がいいのと、父が力を籠《こ》めてくり返しくり返し云っていたので、その当時から暗記しているだけの事である。
それから私が五六歳の頃になると、父が久しく帰らず、家が貧窮の極に達していたらしい。住吉の堂々たる住宅から、博多|鰯町《いわしまち》、旧株式取引所裏のアバラ屋に移って、母は軍隊の襯衣《シャツ》縫いや、足袋《たび》の底刺しで夜の眼も合わさず、お祖母さまと当時十七八であった父の妹のかおる伯母の二人は押絵《おしえ》作りにいそしみ、彩紙《いろがみ》や、チリメンの切屑を机一パイに散らかしていた。押絵の三人一組が二円。軍隊の襯衣《シャツ》縫いと足袋の底刺しが一日十何銭、米が一|升《しょう》十銭といったような言葉がまだ六歳の私の耳に一種の凄愴味を帯びて泌み込むようになった。一間四方位の大きな穴の明いた屋根の上の満月を、夜着の袖から顔を出してマジマジと見ていた記憶なぞがハッキリと残っている。
父が東京から電報為替で金一円也を送って来たのもその頃であったという。
広崎栄太郎という父の旧友が、賭将棋で勝った金十七銭也を持って来て、私の一家の餓《うえ》を凌《しの》がしてくれたのもその頃の事であったと、その後に父から聞いた。
その家にどこからともなく帰って来た父が、私の頭を撫でる間もなく、剃刀《かみそり》を取出してしきりに磨ぎ立て、尻をまくってアグラを掻き睾丸《きんたま》の毛を剃り初めたのには驚いた。何でも睾丸《きんたま》にシラミが湧いたから剃るのだ……といったような事を話していたから、余程、落魄《らくはく》して帰って来たものであったらしい。
「門司の石田屋という宿屋で頭山《とうやま》と俺とが宿賃が払えずに、故郷を眼の前に見ながらフン詰まっていた。と
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