げて頻《しき》りに説明していた。
「この雑誌は丸々珍聞という悪い雑誌ですが、私の悪口が盛んに掲載されるのでこの頃は皆、茂丸珍聞と呼んでおります。私も大分有名になりましたよ」
そうした説明に続いて、伊藤、山県、三井、三菱などいう名が出ていたのを、私は何故という事なしにシッカリと記憶していた。
その中《うち》に私の末弟の五郎が生まれると間もなく、お祖父様とお祖母様が東京をお嫌いになって頻《しき》りに生れ故郷を恋しがられるので父は閉口したらしく私と三人で九州に別居するように取計《とりはか》らった。一時博多の北船《きたふね》という処に仮寓して後《のち》、福岡市の西職人町に借家|住居《ずまい》をした。その時にお祖父様は中風に罹《かか》られたが、父は度々帰省してお祖父様を見舞い、その都度に、大工を呼んで板塀や窓の模様を変え、右半身の麻痺硬直したお祖父様に適合する便器を作らせ、又はお祖父様の股間にタムシが出来た時に、色々な薬を配合して手ずから洗って上げたりした。
父が何でも独創でなければ承知しない性格と、後年の建築道楽の癖を、私はこの時から印象して、心から「お父さんはエライ」と思い込んでいた。
三度目に帰省した時に父は鼻の下の髭を剃った。そうしてお祖父様にコンナ事を話した。
「私は社会と共に堕落して行きます。まず第一段の堕落でアゴ髭を剃り、今度の第二段の堕落で鼻の下の髭を剃りました。この次には眉毛を剃って俳優に堕落し、第四の堕落ではクルクル坊主になるつもりですが、まあ、そこまで行かずとも世の中は救えましょう。アハハ」
泣き中気のお祖父様は、そんな父の言葉を聞く毎《ごと》に泣いておられた。
職人町から歴林町《れきりんまち》に引越した時に、お祖父様は亡くなられた。発病以来七年目、私が十二の年であった。中風に肺炎を併発したのが悪かったのであったが、お祖父様が無くなられると直ぐに父は茶を命じて一同を落ち付かせ、お祖父様の清廉潔白の生涯について批評めいた感想を述べ初めたので、皆、シンとなって傾聴していた。私は永年可愛がって下さったお祖父様がイヨイヨホントウに死なれたのかと思うと泣いても泣いても泣き切れない位、悲しかったので、父が何を話していたか殆んど聞いていなかった。
お祖父様のお葬式が済むと間もなく母は妹と、弟を連れて九州に下り、福岡|通町《とおりまち》に住み、祖母
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