ロス(ズックの事)の革鞄《かばん》から出してくれた。それが新聞を見た初まりで、私が七歳の時であった。
 お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読《そどく》が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後《あと》でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体《からだ》を荒っぽく仕上げて下さい」
 これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経《しきょう》の一部と、易経《えききょう》の一部を教えて下すったものであるが、孝経《こうきょう》は、どうしたものか教えて下さらなかった。
 とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩《かんぱい》し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折《ようせつ》というのをやっていたかも知れない。
 因《ちなみ》に弟の峻《たかし》は、私が八歳の時に疫痢《えきり》で死んだ。そのためであったろう。母は又、私の処に帰って来て、大きな乳を私に見せびらかすようになった。同時に私等は、宗像《むなかた》郡|神与《じんよ》村の八並《やつなみ》から筥崎《はこざき》へ移転して来た。

 私が九歳の時、お祖父様、お祖母様、母、妹等は筥崎から父に従って上京し、麻布の笄町《こうがいちょう》に住んだ。相当立派な家だったところを見ると、この頃からポツポツ父の社会的地位が出来かけていたものと見える。
 父は京橋の本八丁堀に事務所を構え、ヨシ、ミノという二人の俥夫《しゃふ》が引く二人引の俥《くるま》で東京市中を馳けまわっていた。顎鬚《あごひげ》を綺麗《きれい》に削り、鼻の下の髭《ひげ》を短かく摘み、白麻の詰襟服《つめえりふく》で、丸火屋《まるぼや》の台ラムプの蔭に座って、白扇《はくせん》を使っている姿が眼に浮かぶ。
 或る時、お祖父様の前で、地球に手足の生えた漫画を表紙にした雑誌を拡
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