と私もそこへ同居し、中学へ通うようになった。
中学に通い初めると間もなく私は宗教、文学、音楽、美術の研究に凝《こ》り、テニスに夢中になった。明らかに当時のモボ兼、文学青年となってしまった。
その十六歳の時、久し振りに帰省した父から将来の目的を問われて、
「私は文学で立ちたいと思います」
と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない。あんまりイヤな顔をして黙っていたので私はタマラなくなって、
「そんなら美術家になります」
と云ったら父がイヨイヨ不愉快な顔になって私の顔をジイッと見たのでこっちもイヨイヨたまらなくなってしまった。
「そんなら身体《からだ》を丈夫にするために農業をやります」
と云ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコと笑い出したので、私はホッとしたものであった。
「フン。農業なら賛成する。何故かというと貴様は現在、神経過敏の固まりみたようになっている。先刻《さっき》から俺の顔色を見て、ヤタラに目的を変更しているようであるが、そんなダラシのない神経過敏では、今の生存競争の世の中に当って勝てるものでない。芸術とか、宗教とかいうものは神経過敏のオモチャみたようなもので、そんなものに熱中するとイヨイヨ神経過敏になって、人間万事が腹が立ったり、悲しくなったりするものだ。その神経過敏は農業でもやって身体を壮健にすれば自から解消するものだ。だから万事はその上で考えて見る事にせよ。現在の日本は露西亜《ロシヤ》に取られようとしている。日本が亡びたら文学も絵もあったものでない。そのサ中に早く帰って頂戴なナンテ呑気な事が云っておられるか。雪舟の虎の絵を見せても、露西亜兵は退却しやしないぞ」
といったような事を長々と訓戒してくれた。
私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。
その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で指《ゆびさ》しながら、木立の枝を私に卸《おろ》させた。私が筋肉薄弱で鎌《かま》が切れず、持て余しているのを見た父は、自分で鎌と鉈《なた》を揮《ふる》って、薪《まき》の束を作り初めたが、その上手なのに驚いてしまった。カチカチ山の狸と兎が背負っているような、恰好のいい蒔の束が、見る間に幾個《いくつ》も幾個も出来たのを、土蔵の背後《うしろ》に高々と積上げた。出入りの百姓
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