味に於て実社会と直接交渉が無いのでありますから咎《とが》むべきではありませぬが、その他の人々は遺憾ながら知恵の果《くだもの》を盗み過ぎて食傷した猿と評する外ありませぬ。
 この種の人々はその最大限度に於て仮りの本心、仮りの性格に依ってその鼻の表現を支配し得るに止《とど》まるので、まだ本当に本心や性格を改め得るとは云えませぬ。況《いわ》んや持って生れた魂とか根性とかいうもの――ハイカラな言葉で云えば、大にしては国民性、小にしては個性と名づけられているもの――即ち鼻の表現のあらゆる変化の根柢を作っているそのものまでも転換し支配し得るわけではありませぬ。それ程|左様《さよう》に深刻偉大な鼻の表現の研究者とは云えないのであります。
 如何に徹底した悪魔式の鼻の表現であっても、無欲にして明鏡の如くに澄み切った心――悪魔以上に廓然《かくぜん》冷々たる態度を以てこれに対すれば、その底の底に悪魔らしい明智と胆力に対する確信の誇りが浮き上っているのがわけもなく見え透くのであります。さもなくとも普通人でも冷静な気持でこれに対するか、又は初めから呑んでかかるかすれば、大抵この種の鼻の表現使用者の腹の底――世間人間を馬鹿にし切っている気持ちがありありと見抜かれるのであります。況んや万に一つにも鼻の表現法の真髄に体達した人にこれ等の悪魔式鼻の表現が出会ったならば、すぐに根こそげ本性を見破られるでありましょう

     何となき疑い
       ――悪魔式鼻の表現(七)

 悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因が潜《ひそ》んでいるのであります。
 更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調を作《な》しているものはその芸術に対する熱誠只一つでありますが、悪魔の鼻の表現の基調をなしているものは、大胆さ、図々しさ、冷淡さ、狡猾さなぞで、決して澄み切った明るい表現とは見えないのであります。況《ま》してやその表現の根底が仮りの本心、仮りの性格であるに於てをやであります。
 鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の硝子《ガラス》で張った鏡でも、横から見れば必ず硝子の厚みがわかると同時に濃淡二様の二重映像が見えるのと同じ道理であります。如何なる悪魔の二重三重の底意でもさながらにその鼻に写し出されるのであります。
 更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。
「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」
 と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら生命《いのち》を捨ててもと思うものはただの一人も無いのであります。
 天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか情誼《じょうぎ》にほだされた愚物か、又は奸物を承知でくっ付いた奸物かに限られているようであります。聡明|敏慧《びんけい》抜群の士でも、権謀術策を以て人を率いようとする限り、その部下に心服されないという実例は、昔から数多く伝えられているようであります。
「添われぬ位なら一層死にます」
 と親には云いながら、女には土壇場で、
「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」
 と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。
 云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、
「あたしどうしようかと思っているのよ」
 と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。
 悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでも音《おと》なしい正直な人間か又は数等|上手《うわて》を行く明眼達識の士かであります。このような人々の無欲な静かな、そうして澄み切った眼は、悪魔式鼻の表現家の最も忌み嫌うところであります。
 うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族が尽《ことごと》く信用し切っている叔父さんや伯母さんを、お嬢さんや坊ちゃんがどういう訳だか好かない事があるのであります。
「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘|吐《つ》き」とか、別に欺《だま》しもしないのに平気で宣告する事があります。これはその純潔な澄み切った心の鏡に、愛想のいい相手の鼻の表現の底に横たわる或るものがチラリチラリとうつるからで、いくら御機嫌を取っても誠意を示しても益《ますます》反感を買うばかりとなる事すら珍らしくないのであります。
 偽った鼻の表現の価値がどれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で最早《もはや》充分に御了解出来た事と思います。

     記憶と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(八)

 更にこの鼻の表現の邪道――掴ませものの鼻の表現――悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。
 それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。
 心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程|益《ますます》その記憶がありありとなって来る。同時に鼻の表現は益暗くなって来るのであります。
 明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。
 鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。
 その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。
 ここに男性というものがあると仮定します。
 その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか……。
 昨日は女優、今日はウエイトレス、明日《あす》は女学生、明後日《あさって》は交換嬢と、到る処に手を握り締め涙を流して、
「あなたは僕の未来の妻です」
 と身をふるわせ得る鳥打帽……。
「きっと身受けして本妻に」
 と行く先々で嬉しがらせる金鎖……。
 或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、
「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね……」
 と鞄一パイのお土産を荷《かつ》ぎ込む中折れ……。こんな方々が如何に色男で才子で信用があっても、変態心理の所有者でない限りその心に残っている記憶の影を踏み消す訳に参りませぬ。如何に相手に真剣の愛を注いでいる如く如何に巧《たくみ》に装っているにしても、同時に一方に一件の事を思い出さぬわけには行きませぬ。
 すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。
 色事なぞは取りわけても左様《さよう》なので、隠そうと思えば思う程ハッキリと思い出します。
 真剣になろうとすればする程アデな調子になります。
 そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出して浮《ふ》っかり出た「ニヤニヤ」とか「ウフウフ」とかいう気持ちが、鼻の表現の中《うち》を往来明滅するのを禁ずる事は出来ないのであります。
 このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。

     偽表現の影響
       ――悪魔式鼻の表現(九)

 旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。
 男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりを晦《くら》まし、又は知恵の限りを絞ってその秘密の足跡を掻き消していればいるだけ、それだけその努力と苦心の痕は鼻の表現の底に暗い影となって残っているものであります。極めてヒステリックな婦人又は極めて順良な女性には又特にこのような点に敏感なのが多いようであります。
 このような女性は動《やや》もすると理屈なしの不意打ちに男性の言葉を「ウソ」だと否定し、男性が隠し切っている心理状態を思いも寄らぬ方面から抉《えぐ》り出して痛烈な攻撃を加えることがあります。又は眼の前ではさり気なく男の言葉にうなずいていても、いつかどこかで人知れず袖《そで》を噛みしめていることなぞがあります。
 二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、
「どうしたのか」
 と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。
 もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、
「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」
 なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切の裡《うち》に、たよりなさ、わびしさがますます深く感ぜられて来る。
「これがヒステリーというものでないかしら」
 なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、
「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」
 と正面から開き直り得るような事になるのであります。
 こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのように凹《へこ》み、胸が洗濯板のようになって、怨み死にに死ぬまでもであります。
 鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も竦立《よだ》つ位であります。
 一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上|憤《おこ》るのが十中八、九のように見受けられます。ジロリと睨んだだけで相手を押え付けてしまう千両役者もありますが、大抵の場合それだけでは気が済みませぬ。
「そんな卑しい男と思うか」
 とか何とか眼も口も頬も額も、身体《からだ》中の表現をむずつかして自分の心底の公明正大を証明しようとします。その中には世間の習慣に楯つこうとする女性の生意気さに対する憤り、今までに与えた恩誼に対する相手の無自覚さに対する不満なぞいう良心の錯覚もまじっているのであります。その錯覚の勢いで相手を圧倒すると同時に、自分の正しからぬ鼻の表現を誤魔化そうと試みるのであります。
 しかし生憎《あいにく》にも鼻はいつもこの表現を裏切っているのであります。その暗い記憶に対する気の引け加減は、眼や口が怒りの表現で大車輪になってるさなかにも、鼻の表現にちゃんと居残っているのであります。

     馬鹿にされる
       ――悪魔式鼻の表現
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