(十)

 少々余談に亘りますが、男性の中でも夫と名付くる種類の中《うち》には、どうかすると吾家《わがや》に帰って来るたんびに、初めから怒鳴り込んで来るのがあります。
 さもなくとも何か知ら機嫌が悪くて、事毎《ことごと》に難癖をつける。まごまごすると烈火のように爆発するなぞいう難物があります。この心理状態を解剖すると非常に複雑になりますが、要するに吾が家に近付くに従って、前に述べました原則に従って暗い記憶が鮮かに解って来る。それにつれて嬶《かかあ》や子供の何も知らぬ顔付きが、恰《あたか》も良心の刺激その物のように腹立たしいものにかわって行く。その罪の無い鼻の表現に対する自分の暗い鼻の表現が、無意識のうちに気がかりになって、苛立たしい不愉快な気持ちになって行く。それをそうとは自分でも意識し得罪も無い枕を投げるような事にもなる。又はこのような心理状態を自分で認めていながらのテレ隠しもあるという次第で、鼻の表現がその暗さと空虚さを使いわけて、このような怒りの表現を一々裏切って行く点に変りは無いのであります。
 ですからしまいには女子供にまで馬鹿にされて、「ソラお帰りだ」とか「又初まった」位にしか扱われぬ事になります。本人もこの程度の成功に満足して、「とにかく一件がバレなければいい」というような情ない日を送る事になります。自分の鼻の表現に呪われた男ほどミジメなものはありませぬ。
 その他、自分の良心に対する女性の正面攻撃に出合った場合、男性の執る態度や手段はいくらでもあります。利口なのや馬鹿なの、気の長いのや短いのなぞに依って種々雑多に千変万化しますが、いずれにしても鼻の表現に裏切られる事は免れ得ませぬ。本当に前非を後悔して、悄然《しょうぜん》として異性の膝の前に「お許し」を哀願しない限り、自分自身の鼻の表現の根底を作っている本心の「お許し」も出ませぬ。鼻の表現の底を往来する「暗い記憶の影」は除かれない事になります。
 ありとあらゆる男性は、皆申し合せたようにこのお許しの哀願を忌避します。忌避するためにジタバタ致します。知恵のあらん限りを絞って、掛引きのあらん限りを試みます。芝居や小説のタネが尽きませぬ。鼻の表現研究の興味も尽きない事になるのであります。
 しかし又世間は御方便なもので、一方から見るとこの鼻の表現の影響は、こう迄厳密に男女関係に当てはまって行きませぬ。
 つまり男性ばかりでなく相手の女性の鼻の表現――本心や性格にもいろいろな条件が付いていて、男性の鼻の表現に対する感覚が鈍っているのであります。惚れた弱味や惚れない強味、先入主や後入主、自惚《うぬぼ》れや贔負《ひいき》目、身の可愛さや子の可愛さなぞいう物質的や精神的な条件が、底も知れぬ位入れ交《まじ》って淀みつ流れつしております。その上をその日その日の気分の風が吹き、その時その時の感情の波が立ち騒ぐといった調子で、相手の鼻の表現を底の底まで映し出しながらも、風に吹かれ波に消され、又は流れに引かれて、思うがままの態度を取りにくいのが普通であります。そのために笑って済ます切なさもあれば、泣き寝入りのあわれさもあります。一方には女郎の千枚|起請《きしょう》や旅役者の夫婦約束が、何の苦もなく相手を自殺させるなぞいう奇蹟が続々と起って来ることになるのであります。
 悪魔式鼻の表現はこの間に活躍して縦横|無礙《むげ》にその効果を挙げるので、鼻の表現研究の必要もここに到って又|益《ますます》甚だしくなるのであります。

     貞操と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(十一)

 近来「男子の姦通罪を認めよ」とか「認めるな」とかいう問題が次第に八釜《やかま》しくなって、議会にかけるとかかけぬとか騒がれているようになりました。
 現代の社会組織とか、この中に行われる習慣とか、又は一般道徳とかいうものを標準にされる法律では、こんな問題が問題になるかも知れませぬ。市役所に出す婚姻届が絶大の権威を持つ法律では、こんな研究が八釜しい研究材料となるかも知れませぬ。しかし鼻の表現研究の原則から見れば全く問題とするに足りませぬ。研究する事すら馬鹿馬鹿しい位であります。
 妻は常に夫に対して純真純美な鼻の表現を見せていなければならぬと同時に、夫は常に妻に対して公明正大な鼻の表現を示していなければなりませぬ。仮《か》り染《そ》めにも鼻の表現に暗い影響を及ぼすような、暗い心理的経過を持ってはなりませぬ。これは誰にでもわかり切った問題で、又それだけの事であります。
 法律の御厄介にならねばならぬような貞操関係を持つ夫婦は、世間的には夫婦かも知れませぬが、人間的には夫婦でありませぬ。市役所の戸籍面では夫婦かも知れませぬが、鼻の表現上の夫婦関係は消滅しているのであります。そんな事ならば初めから夫婦にならぬ方がよろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯|互《たがい》に独身主義を守って只一時限りの……又は売り物買い物の低級な性愛や性欲で満足を買って行くがよろしい……と云いたくなりますが、これは机上の空論で実際はなかなかそうは行きませぬ。
 世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り――社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り――又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り――さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜――さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光の燦《きら》めきが夜の世間から退散しない筈であります。
 つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた不見転式《みずてんしき》の許嫁《いいなずけ》が幸福やら、合わせ物、離れ物式が真理やら、今の世の中ではわからない事になって来ます。
 日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ――純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫に見《まみ》えず」なぞと睨み付けられているし、習慣の方からは世間の口端《くちは》という奴が「女にあれがあってはねえ」と冷たい眼で見詰められております。女性の良心はこの点では、直《すぐ》に行き詰《づま》らせられるのであります。
 一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突き詰《つめ》られ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。
 これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭《はっきり》した定義を下しかねているようで、却《かえ》って「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。
 これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白《たいはく》を挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。
 ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位の威《おどかし》で改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣の中《うち》に活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、益《ますます》つけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。
 さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちから薹《とう》立ち迄、又は生《なま》なれから本《ほん》なれへと漁《あさ》り歩きます。デカダンの非道《ひど》いのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。
 こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、或《あるい》は二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなければエラくないのだという、生存競争場裡の虚栄心までこれに手伝って、そればかりのために死に物狂いに働くはまだしも、不義理、不人情、不道徳はまだしも、詐欺、横領、泥棒なぞまでしても各方面の第一義に入れ上げようとします。
 イヤハヤまことに御盛んな事で、容易に寄りつける沙汰ではありませぬ。法律で禁止しようが、社会課で宣伝しようが、救世軍が我鳴《がな》り立てようがビクともしませぬ。天の岩戸の昔よりという意気組であります。
 只ここに鼻の表現なるものが存在して、かような人類文化の頽廃を随所随時に喰い止めて、悪魔式の表現を片っ端から裏切っているのであります。人間の表現を純真にして、社会生活を純美に導くべく、悪魔式鼻の表現を絶滅すべく、鼻という鼻の一つ毎《ごと》に活躍を続けているのであります。
 ずっと前にも研究致しましたように、鼻の表現なるものはその持ち主の意志、感情、信念等の変化を表すと共に、その誠意の充実の程度迄も一々細やかに写し出すものでありますが、これが女性に対するとどうなるか。
 実意のある無しが、鼻の表現にすっかり現われるという事になります。事実上口先でどんなにうまい事を云っても、実意のある無しは鼻の表現に依ってチャンと相手に感じているので、只相手の神経の鋭敏さ、又は気持ちの静かさに依って、その感じ方に早し遅しがあるだけの違いであります。
 如何に大勢の女性を同時に愛し得る男性でも、その相手の一人と差し向いでいる間は常に第一義の愛を求めているものであります。相手が純真純美の愛を捧げて身も魂も打ち込んで来る事を望んでいるものであります。
 これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして偕老同穴《かいろうどうけつ》を誓っている。ビー子にはエイ子とシー子の事に就いて口を拭うて共白髪《ともしらが》を誓う。シー子の前では又、お前こそ俺のいの一番のシー子さんだと言明する。いずれも注文に応じて即座に情死を承知する位の第一義を挑発しようと努めているのであります。
 尤《もっと》も中には「情夫があったら添わしてやろう」式に恐ろしく大きく世話に砕けたのもあります。しかしこれは相手の第一義式の性愛が望まれないために、思い切ってその第二義第三義以下の愛に対する期待までも捨ててしまって、性愛とは方面違いの人類愛的精神状態に入ったものと見るべきでありま
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