す。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当《つらあて》などの意味も含まれていない事は無いと考えられます。些《すくな》くともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。
要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。
この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。
仮令《たとえ》その相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中《まっただなか》、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。
殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、或《あるい》は又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」と威《おど》しても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。
ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。
「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。
「身体《からだ》は売っても心は売らぬ」という篦棒《べらぼう》なのが出て来るのもこの意義からであります。
ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。
記憶と鼻
――悪魔式鼻の表現(十二)
人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずには措《お》かぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。
然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものが勝《かち》だという意見の方が昔から勝を占めているようであります。
これは至極|尤《もっと》もな話であります。
少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男の児《こ》なぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、
「まだ世間知らずだなあ」
なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化《ふか》しつつあるのであります。
これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。
善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地の祟《たた》り、親罰、子罰、嬶罰《かかあばち》のと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふり撒《ま》かれておりますが、近頃の人間は頓《とん》と相手にしなくなりました。恰《あたか》も往来の塵《ちり》同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。
しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面《てきめん》に証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。
「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負け惜《おし》みの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。
鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。
鼻と文化生活
――悪魔式鼻の表現(十三)
悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄|抉《えぐ》り付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。
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鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。
第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。
たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運の尽《つき》ではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。
[#ここで字下げ終わり]
……と……。
……まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町《よこちょう》の黒犬と竪町《たてちょう》の白犬とが往来の真中で証明してくれるのであります。
横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然《がぜん》として態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる……何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅の巷《ちまた》を演出したりします。
これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで……尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。
ですから……これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束《おぼつか》ない……とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。
そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現を和《やわ》らげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅《あんばい》式になります。
これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。
同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。
これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人《なんびと》も欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従《ついしょう》は、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。
鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。
この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。
「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」
という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。
「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。妾《わたし》こんや嬉しいわ」
という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。
「お蔭様で助かります」
という仏面《ほとけづら》と、
「抵当が欲しけりゃ持って行け」
という閻魔面《えんまづら》とのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。
鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事《まこと》から出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外|廃《すた》れ切らないのは、偏《ひとえ》にこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。
親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」と白《しら》を切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪《むじつ》だな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッ
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