キリ此奴《こやつ》と名判官が睨むのは、その無私公明、青空止水の如き心鏡に、被告人の鼻の表現がありありと映ったものに違いありませぬ。
 かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ不確《ふたしか》なものとなります。指紋などの研究よりも何よりも、先ず鼻の表現の研究の方が刻下の急務ではあるまいかと考えられる位であります。
 かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。

     輪廻転生
       ――運命と鼻の表現(一)

 その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで研《みが》き上げられた人格とが、鼻の表現の変化の根柢を作っている事は、今まで研究して参りましたところに依って最早充分に了解の事と信ぜられます。鼻の表現に現われた喜怒哀楽の基調が卑しいものであるか、高尚なものであるか、又は狡《ずる》いものであるか、正直なものであるかという事は、その底に表現されている、その人間の性格を見れば一目瞭然するのであります。
 勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は研磨《とぎす》まされた心鏡の光を現わしております。仁者の鼻は和《やわら》かい静かな気持を示しております。聖者の鼻からは上品な清らかな霊感を受《うけ》るのであります。
 さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと上《う》わ反《ぞ》りになっているかの表現をしております。
 これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、直《ただち》にその鼻の持ち主の運命となって来るのであります。即ち鼻はその持ち主の運命を支配していると云っても差し支えないのであります。
 これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、或《あるい》は悲観し、或は楽観し、又はこれに対抗して行く意志や感情や信念は積り積って行く中《うち》に、更にその人の性格を作って行くものであります。即ちその人の性格は、その人の経歴の縮図で、その性格をすっかり見せている鼻の表現は、その人の将来の運命と共にその持主の経歴も象徴しているのであります。
 その人の性格の基礎となるべき個性の中《うち》には、先天的の分子、即ち遺伝に依って稟《う》け継いだ性質が多分に含まれている事は学者の証明するところであります。その先天性の中《うち》には、動物性もあれば人間性もあります。動物性というのは吾々の祖先が猿か猫か何かであった時代に体験して来た性質で、子供の時に只わけも無く木に登って見たり、動物を生《なま》殺しにして玩弄《おもちゃ》にして見たり、又は無意味に暗黒を恐れたりするのは、この性質の発露だそうであります。
 人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。
 動物性と人間性……固有性と通有性……ただ個性というものの中にも、これだけの複雑広大な因子が含まれております。これがオギャーと生れてから後《のち》の修養や経験に依って整理淘汰されたものが、その人の性格となり、これが向上洗練されたものが、その人の人格となる。そうして子孫に伝わるとでも申しましょうか。
 顔面中央の一肉団……本来不動、無表現の鼻柱はかくしてその人の個性、性格、人格を表明すると共に、父母未生以前の因果、弥勒《みろく》の出世以後の因縁までも同時に眼の前に結び止めて、輪廻《りんね》転生のあらたかさをさながらに拝ませているのであります。吾々の生涯に積んだ悪業善行は、こうして子々孫々の後《のち》までも鼻の表現の中を流転して、その運命を支配して行くのであります。
 ずっと前に研究を致しました……
「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……
 無から有を生ずるところに在る……
 不変不動のまま千変万化するところにある……
 造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」
 という事実が如何に驚異に値するか……ただ言語道断。気を呑み声を呑《のん》で「鼻」の前に低頭平身する他ありませぬ。
 昔から偉人とか傑士とか、又は苦労人と呼ばれる人々は、多少に拘らず無意識の裡にこの間の消息を飲み込んでおったもののようであります。
「人品骨柄卑しからぬものと見えた。召し抱えよう程に名を問うて参れ」
 といったような話があります。この人品骨柄卑しからぬという見処《みどころ》は、その鼻の表現にあるので、眼や口が如何に清らかであっても鼻の表現が卑しかったら落第であります。
 如何に経歴を偽っても、又は柔和な人相をしていても、
「此奴油断のならぬ奴」
 と思わせるのは、その胡乱《うろん》な経歴から来た性格が鼻に現われているからであります。
 戦場|場数《ばかず》の豪の者、千軍万馬を往来した驍将《ぎょうしょう》の鼻には、どことなく荒涼凄惨たる戦場の殺気を彷彿せしむべき或るものがあります。
 泥水商売に身も心も浸《ひた》して来た鼻には、血も涙も褪せ果てた見すぼらしい本心の姿が見えるというのは、さもあるべき事でありましょう。
 この故に大聖孔子は、一野翁老子の前に頭が上らなかったのではありますまいか。
 かかるが故に、歴山《アレキサンダア》大王は一乞食学者ダイオゼニアスを奈何《いかん》ともする事が出来なかったのではないでしょうか。
 賤《しず》が伏せ屋の見すぼらしい母子《おやこ》が只の人でないと眼をつけられ、綾羅錦繍《りょうらきんしゅう》の裡《うち》に侍《かし》ずかるる貴婦人がお里を怪しまるるそもそもの理由も、亦《また》ここにあるのではありますまいか。
 骨相学者や運命判断の原理は別としましても、その人の経歴と性格と運命とが、鼻の表現を中心として循環転変して行きつつある事は疑う余地ありませぬ。
 この道理は歴史の上にも現われて、成る程と思わせられる事が甚だ多いのであります。
 歴史上に活躍する人物の性格と、これに対する群集心理との結合は何に依って成り立っているか。何に依って認められ、何に依って反響を招きつつあるか。
 思うてここに到る時、鼻の表現の権威の偉大さに驚かざるを得ないのであります。
 世界の歴史は誇張した意味でなしに、鼻の表現の歴史と見て差し支えないのであります。
 人類文化の推移は掛け引き無しのところ、鼻の表現の推移と考えられるのであります。

     スフィンクス
       ――運命と鼻の表現(二)

 世界歴史の表面に鼻を向けるに先立って、是非一度研究しておかねばならぬのは、前に御紹介致しました世界最古の文明国エジプトはナイル河畔に、数千年の昔から横たわっているスフィンクスの鼻の表現であります。
 青藍色に澄み切った大空の燦爛《さんらん》たる烈日の下《もと》に燃え上る褐色の沙漠の一端、暗黒の大陸を貫いて南から北へ流るるナイル河の氾濫に育《はぐく》まれたエジプトの文化は、実に奇怪を極めたものでありました。
 滴《したた》るばかりの緑の野に金光|赫々《かっかく》として輝くファラオの武威は、各王の死後の住家である三角塔と、その功績を地表高く捧ぐる方光塔と、迷い入ったら最後、容易に出口を発見し得ぬという螺堂を生みました。又不可思議をそのまま神として崇拝する万有神教は、輪廻転生の説と木乃伊《ミイラ》とを生みました。その中にわけても不可思議の建造物として、今日迄全世界の学者に首をひねらしているスフィンクスの大石像を生み出したという事は、エジプトの文化の奇怪さを一層強く裏書きしているものではありますまいか。
 この石像の不可思議が今日迄解決されないままに「謎語《スフィンクス》」の象徴として中学校の教科書にまで載せられている事は、あまりに知れ渡り過ぎている事実であります。その「謎語」の「謎語」たる所以《ゆえん》は、その姿が人面獣身であるところにあるという事も亦あまりに有名な事実であります。
 然るにここに注目すべきは、そのスフィンクス像の鼻は偶然か天意か知らず、いつの間にか欠け落ちている事であります。その欠け落ちたのは勿論後世の探検家に発見される以前の事で、本来高かったものか低かったものか、又はどんな恰好をしていたものか、今日からは全く見当のつけようがないのであります。
 鼻の表現の研究が世界歴史に触れるに当っては、是非ともこの事実を問題としない訳には参りませぬ。スフィンクスの鼻が欠け落ちているために、如何にそのスフィンクスたる表現を強めているか。スフィンクスの象徴している意味が、如何にスフィンクスられているかということは、「鼻の表現」に与えられた一つの謎語[#「謎語」に傍点]として……人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。
 人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品――「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像――その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、何故《なにゆえ》とも何事とも知らず欠け落ちている。「謎語」の二乗になっているという事は、「世界歴史が鼻の表現の歴史である。人類の文化が鼻の表現の表現である。それを人類は知らないでいる」という天の啓示ではありますまいか。
 一方から見ますと、人類進化の道程は先ず獣《けもの》から発している事を証せられております。同様に人類文化の推移は、獣心から人心に進むところに在ると解かれております。数千年前にこの意味を象徴し得たエジプトの万有崇拝教が作った文化は、そのスフィンクスの鼻の表現に於てもこれを象徴し得なかった理由はありませぬ。
 しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる所以《ゆえん》である事を考え得ぬ筈はありませぬ。
 ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の埃及《エジプト》王の御覧に供した後《のち》、或る夜|窃《ひそか》に梯子を持って行って、その鼻の表現を自然の作用であるかのように欠き落したのではあるまいかとも考えられます。
 いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。
 折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。
 スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。

     クレオパトラ
       ――運命と鼻の表現(三)

 鼻の欠け落ちた大怪像スフィン
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