ゾッとするまでに満足させるか……。
毒婦、色魔、悪党
――悪魔式鼻の表現(四)
敵は本能寺にあり、相手の生血を吸い取り得れば――相手を丸裸になし得れば――又はどこかに売りこかし得れば、あとは野となれ山となれ――泣こうが喚《わ》めこうが発狂しようが、どこを風が吹くという鼻の表現で取り付く島もなくふり捨ててしまうのであります。
毒婦や色魔は世間を摺れ枯らした結果、すべてに対して捨て鉢であると同時に高を括《くく》っているのであります。すべてに対して絶対に冷やかな態度を執り得ると同時に、その相手に対して寸分の未練も残さないのであります。鵜の毛で突いた程でも未練があればそれが直ぐにこちらの弱味……鼻の表現の変化の妨げ……になる事をよく心得ているので、いつ何時でも「嫌なら嫌でいい」という態度を取り得るまでに腹を締めているのであります。
ですからすべての執着や気がかりを離れて、どんな気もちにでもなる事が出来るのであります。名優と同じように、その境界や場面のうちで最も相手の弱点を捕え得べき感情や意志を腹の底から表現する事が出来るのであります。真そこから泣き、笑い、怒り、怨み、拗《す》ね、甘ったれ、しなだれかかり、威《おど》し、すかし、あやなす事が出来るのであります。
悪党とても同様であります。彼等は実世間を舞台とし背景として名優の鼻の表現法を行うものであります。
彼等は無言の裡に満腔の涙をその鼻の表現に浮き上らせて、相手の真実の感銘を誘います。彼等は物事が如何に思う壺にはまっても、そんな事はこっちの本旨ではないという、冷然たる鼻の表現を示し得るのであります。
「おれを引き渡すなら引渡せ。そうなりゃあ貴様も地獄の道連《みちづれ》だぞ」
と度胸をきめた鼻の表現の物凄さは、大抵の向う見ずでも震え上らせずにはおきませぬ。
「思いもかけぬ御|尋《たず》ね。何と申開きを致してよいやら。露おぼえの無い事……」
とひれ伏した鼻の表現の神妙さ。一通りのお役人なら一杯喰わされるにきまっております。
彼等の偉大なものになると、泰平の世に何十万石の知行とか何万両の財産とかを手に入れるため、十数年もしくは数十年の間忠実無二の性格を鼻の頭に輝かしつつ明かし暮らす事が出来るのであります。明日こそ毒殺してくれようという当の相手の主人の前に出て、「恐悦至極」の表現を鼻の頭に捧げ奉る事が出来るのであります。
本心を殺して時節を見る事を知らずに正面から諫言をする一刻者の鼻の表現のうちに当然含まれている良心の輝き、主人に対する怨恨、不平、さかしら振り、そのようなものがいろいろ主人の反感を買うのとうらはらに、悪党たちの柔和な、へり下った鼻の表現が着々として成果を収めて行くのは無理もない事であります。
こうして回を重ねた揚句《あげく》、事|遂《つい》に発覚して首の座に坐って、いよいよこれで一代記の読み切りという処まで来ても、彼等悪党は自若として鼻の表現をたじろがせずに一命を終るものすら珍らしくないのであります。
横着政治家
――悪魔式鼻の表現(五)
横着政治家も亦《また》この例《ためし》に洩れません。殊《こと》にマキャベリー式政治家に鼻の表現を使いわけるタチの人が多いようであります。
この種政治家は事実でもない事を事実として吹聴して人を驚かしたり、確信も無い事を実際に出来るかのように世間に認めさせたりしなければならぬ場合に数限りなく出合うために、つい有意識無意識の間に鼻の表現の使い方をおぼえ込んでしまうのであります。
老人に会えば「旧式の教育法を復活しない限り国家は滅亡の他ない」と悠然として長大息し、青年と席を同じくしては「日本文化の時代遅れ」を慨然として痛論します。軍人に出会って、世界の帝国主義が事実上に高潮しつつある事を厳然として指摘するかと思えば、社会主義者の顔を見ては、人類社会に於ける形而上と形而下のすべてが宗教、政治、芸術、経済の各方面に亘って民衆化し共産化しつつある事を決然として断言します。
みんなを一所に聞いていると何の事やらさっぱり見当がつきませぬが、相手は皆一人一人に本当だと思って傾聴し感激し共鳴しているのであります。つまり本人はその都度別の人間になって衷心からそう信じて云うから、鼻の頭までも熱誠と確信の光りを帯《おび》て来るので、これに影響された相手は、如何にもあの人は感心だ。話せる人物だ。えらいお方だと思うようになる。そこが又横着政治家御本人の狙うところなのであります。
さらに大嫌いの先輩に腹の底からの好意を示し、真誠無双の国士に白い眼を見せ、資本家のノラ息子の人格に絶大の敬意を払い、失脚者の孝行息子を無下に軽侮した鼻の表現を以て迎える。又は有力家の前に堂々たる容儀を整え、金銭の奴隷に下足を揃えて御機嫌を伺う。しかも微塵も鼻の表現をたじろがせずに常に先方に遺憾なき感動を与えるのをお茶の子仕事と心得ているのであります。
彼等は幾度か身の毛も竦立《よだ》つ浮き沈みに出合った揚句、所謂「度胸一つがすべての資本」という悟りを開いております。あらゆる失敗をやってあらん限りの恥を掻き上げた結果、羞恥心が思い切り摺り切れております。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一、すべてに対する未練、執着、気がかり、気兼ね等から超脱する事
一、すべてを冷眼視し得る度胸で本心のゆらめきを圧迫し去る事
一、如何なる俄《にわか》作りの感情、お座なりの意志、間に合わせの信念でも直《ただち》に本心一パイに充実させ得るように心掛ける事
[#ここで字下げ終わり]
といったような術を天然自然と会得しております。猫を冠《かぶ》るは愚かな事、獅子でも豚でも蛙でも蛇でも、何の皮でも自由自在に脱けかわり被《かぶ》りかわる事が出来るのであります。
こうしてその心にすこしのわだかまりも不安も無しに如何なる場面にでもしっくりと落ち着き合う事が出来るのであります。
どんな気分にでもゆったりと調和し合う事が出来るのであります。
ここに於て……
[#ここから1字下げ]
……鼻の表現はその本心や性格の色彩を現わす。故にその本心や性格を変化させ得るものは、その鼻の表現を支配する事が出来る……
[#ここで字下げ終わり]
という逆定理が完全に彼等のものとなって来るのであります。この逆定理を応用してその本心を打ち消し、その性格を隠して、鼻の表現をさながらにそれらしく変化させて行く事が出来るのであります。
この逆定理を舞台上の修業で手に入れたものは直《ただち》に名優となる事が出来るのであります。同様に実世間の舞台面で修得したものは直に悪魔式鼻の表現の大家、毒婦、色魔、悪党、横着政治家となり得るのであります。そうしてこの程度まで鼻の表現を研究し得れば、最早《もはや》所謂、機略縦横、神出鬼没の行き止まりとして世間から一種の敬意を払われるので、しかもこれを世渡りの秘訣、処生法の免許皆伝と心得ている人が又|頗《すこぶ》る多いように見受けられるのであります。
この悪魔式鼻の表現に威かされたり、感銘したり、共鳴したりする人も又頗る多いように見受けられます。そのままに世の中は滔々《とうとう》として動き流れて行くのであります。
しかしこれを正しい鼻の表現法から見れば、極めて浅薄な皮相的な研究法で、鼻の表現の真諦に入る階梯とはならないのであります。却《かえ》って一つの大きな邪道と見るべきものである事をここに特に力を入れて闡明《せんめい》しておきたいのであります。
鼻の表現法の真意義の研究に入るには、先ずその邪道なるものを飽く迄も知り抜いていなければ、その真意義なるものがはっきりとわかりにくいのみならず、却ってこの邪道に陥って又と再び本通りに帰る事が出来ないようになる恐れがあるのであります。
鼻の表現法の邪道なるものは、一度踏み込んでみると中中面白いものであります。大抵の奴はこの邪道でコロリコロリと参る……俗物は色気や欲気で誘い出し、君子はその道を以てこれを欺くといった風に、その効果が眼の前に現われます。どんな場合でもフン詰まらず、如何なる逆境でも順境に引っくり返す事が出来て、世間はどこまでも拡がって行くように見える。とうとうこれに浮されて、一生しんみりした鼻の表現の価値を認めず人間らしいつき合いの味を知らずに、しかも得々として眼をつぶる者さえ些《すく》なくないのであります。
正表現、邪表現
――悪魔式鼻の表現(六)
このような人々は悪魔に一生を捧げ尽した人と云うべきでありましょう。否、虚偽を以て真実を弄《もてあそ》びつくすのでありますから、この人等をこそ悪魔と呼ぶべきではありますまいか。何等社会に与《あず》かるところなくして、社会からあらゆるものを奪い取るからであります。
その中《うち》でも偉い奴になると栄燿《えいよう》栄華心に任せ、権威名望意に従わざる無く、上は神仏の眼を眩《くら》まし、下は人界の純美を穢《けが》し去って、傲然として人間の愚を冷笑しつつ土の中に消え込むからであります。これを羨みこれを慕う凡俗の群は、踵《くびす》を揃えてこれに学びこれに倣って、万古に尽きせぬ濁流を人類文化の裡面に逆流させるからであります。
それならそれでもいいじゃないかと功利派の人は云うかも知れませぬが、左様《さよう》ばかり行かぬから困るのであります。悪魔式の鼻の表現は矢張り悪魔式鼻の表現で、どうしても正しい鼻の表現とは違うのであります。如何に巧みに、如何に徹底的に装っていても、必ずはっきりと見分けのつくところがあるのであります。
鼻の表現研究の面白味はここに到って益《ますます》高潮して来るのであります。
最初から只今までズーッと述べて参りました鼻の表現の実例は、これを大別すると二通りになるのであります。
前の方に述べました実例は、主として鼻の表現を支配し得ぬ人々で、これを支配するは愚なこと、そんな表現機関が自分の顔の真中に存在している事すら夢にも気付かずにいた人々がその大部分を占めているのであります。
それからおしまいの方に悪魔式鼻の表現法として挙げましたのは、虚偽であれ何であれ、兎《と》にも角《かく》にも鼻の表現を支配し得る人々で、中には鼻の表現法を悉《ことごと》く飲み込んでいる人もあるそうであります。そんな人は先ず世間では珍らしい方でありましょう。
ところでこの鼻の表現の支配し得る人々が何故に相手に深い感動を与え得るかと云うと、その眼や口や身ぶりの表現が鼻の表現と悉く一致しているからであります。だから本心からそう云っているように見える。思っているように察せられる。信ぜられる。
だから相手も疑わない。共鳴する。本気になる。とどのつまりが真っ赤な偽ものを真実至誠の者と認めて、身命を惜しまず奉公するという順序になって来るのであります。
個人もしくは民衆を徹底的に動かすものは真情の流露、至誠の発動であるという事は、今衆口の一致するところであります。而《しか》して真情の流露する時、至誠の発動するところ、必ずや全身のすべての表現の渾然たる一致を見なければならぬ筈であります。
本当に喜んでいるものならば、その全身の表現はその上っ面の表現機関たる眼や口や身ぶりはもとより、鼻の表現までも一貫して徹底的に喜んでいる筈であります。
衷心からそう信じているものならば、その鼻の表現は他の表現機関ともろともに徹頭徹尾確信の輝きに満ちていなければなりませぬ。
こうしてその人のすべての表現が鼻のために少しも裏切られていない事が相手にわかった時に初めて、その人の表現が純一であると認められ得るのであります。その人の真剣味や至誠の力が相手を動かし得るものなのであります。
すべての表現の渾然たる一致――それが相手たる個人及び民衆に及ぼす影響の偉大さ――この機微を盗んで或る程度まで成功しているものがかの名優、その他仮りに悪魔式鼻の表現家と名づけた人々であります。
この中でも名優は商売でありますし、その表現は或る意
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