サイダ抜式鼻の表現――この対照の方が表現派向きかも知れませぬ。
鼻と実社会
――鼻の動的表現(十一)
こうして鼻の表現は、その大小、深浅、厚薄取り取りをそのままに、無意識の裡に相手に感応させております。相手も又無意識のまま感応に相当する意志や感情を動かしてその鼻に表現しているのであります。
この点に気付かない人が多いのと同比例に、世の中の事が思い通りに行かぬ人が多いらしいのであります。そうしてそこに鼻の表現の使命が遺憾なく裏書きされているのであります。
「おれがこんなにお百度を踏むのに、彼奴《きゃつ》は何だって賛成しないのだろう」
「妾《わたし》がこれだけ口説いているのに、あの旦突《だんつく》は何故身請してくれないのだろう」
「親仁《おやじ》はどうして僕を信用してくれないんだろう」
「彼奴《きゃつ》威《おど》かしても知らん顔していやがる」
なぞよく承わる事でありますが、これはさも有るべき事で、御本人の誠意が無い限り鼻が決してその誠意を裏書きしてくれないからであります。お向う様を怨むよりお手前の鼻に文句をつけた方が早わかりかも知れませぬ。このほか……
「親仁は癪に障るけど、おふくろが可哀相だから帰って来た」
という意気地無しの土性骨。
「奥様がおかわいそう」
という居候のねらい処。
「一ひねりだぞ」
と睨む空威張。
「会いとうて会いとうて」
という空涙。いずれもすっかり鼻に現われて相手の反感を買っているのであります。
しかもこうした鼻の表現の影響は単に差し向いの場合に限られたものではありませぬ。もっと大きな世間的の行事又は社会的の運動――そんなものにも現われて、その如何に偉大深刻なものであるかを切実に証明しているのであります。
「資本家を倒すのは人類のためだ」
と揚言しながら「実はおれ自身のためだ」というさもしい欲求――
「労働運動は多数を恃《たの》む卑怯者の群れだ」
と罵倒しながら「おれの儲け処が貴様達にわかるものか」という陋劣《ろうれつ》な本心――
「多数党如何に横暴なりとも正義が許さぬぞ」
という物欲しさ――
「本大臣は充分責任を負うております」
という不誠意――
どれもこれもその云う口の下からの鼻の表現に依って値打ちは付けられて、天下の軽侮嘲弄を買い、同時にその成功不成功を未然に判断させているのであります。
鼻の表現は随分遠方からでも見えるらしいのであります。
議会壇上に立って満場の選良に対して、
「本大臣は本日ここに諸君に見《まみ》ゆる光栄を有する事を喜ぶ」
とか何とか音吐朗々とやっております。然るに内心では、
「ヤレヤレ又馬の糞議員共が寄り集まった。此奴《こやつ》等と見え透いた議論をしなければ日が暮らされぬのか。要するに余計な手数なんだが、馬鹿馬鹿しい」
という考えでおりますと、不思議に議場の隅に生あくびを噛み殺す奴が出て来るのであります。御同様に議員さんが立ち上って、
「国家のために政府案に賛成するのだ」
と拳固をふりまわしているのを見ると、
「これも役目だから」
という気持がスッカリ鼻の表現をだれさせているために、「国家のため」という言葉が根っから感動を与えないのがあります。
数万の聴衆を飽かせない大雄弁家でも、
「とにかくおれの演説はうまいだろう」
という気もちを鼻の頭にブラ下げて壇を下《くだ》れば、人々の頭には演説の趣旨は一つも残らずに只、
「うまいもんだなあ」
という印象だけが残ります。うっかりすると「演説使い」だとか「雄弁売り」――又は時と場合では「偽国士」とか「似而非《えせ》愛国者」とかいう尊号を受《うけ》ないとも限りませぬ。
喰い詰めた宗教家はよく十字街頭に立ちます。鬚だらけの穢《きたな》い姿に殊勝気な眼付、口もとして、
「アア天よ。この恵まれざる人々を……」
なぞやっております。しかしその下から、
「皆さん、欲をお離れなさい。そして私に御喜捨をなさい。私が神様に取次いで上げますから」
という情ない心境をその日に焼けた鼻に表現しておりまするために、人々に嘲笑冷視を以て迎えられております。
彼等はこれを知らずして只|徒《いたず》らに天を仰いで空しく世道人心の頽廃を浩歎《こうたん》しているのであります。思い切って鼻を往来の塵に埋めて、
「どうぞや、どうぞ」
と言う乞食よりも賢明でないものである事を同時にその鼻が表明しているのであります。
悪魔の鼻
――悪魔式鼻の表現(一)
こうして鼻の表現は絶対に偽る事は出来ないものでしょうか。どんなにうまい口前で如何ように眼や口を使いわけても、それが心にもない事である限りいつも鼻の表現に裏切られていなければならぬ筈のものでありましょうか。喜怒色に表わさずというモットーを文字通りに守り得る程の社交的人物でも、鼻ばかりは常に喜怒を表わしていなければならぬ筈のものでありましょうか。
フットライトの中に浮き出してあでやかに笑いまわる舞姫の鼻の表現のわびしさは、絶対に拭い除《の》ける事の出来ないものでしょうか。展望車の安楽椅子に金口《きんぐち》を輪に吹く紳士の鼻の淋しさは、何とも包む術《すべ》はないものでしょうか。リモシンのフクント硝子《ガラス》の裡《うち》に行く人をふり返らすボネットの蔭からチラリと見える白い鼻の愁い、悲壮な最後を遂げた名士の棺側に付添いながら金モール服揚々たる八の字鬚の誇り……これ等の表現は絶対的に不可抗力のあらわれとして諦められなければならないものでありましょうか。
鼻の表現は眼や口なんぞと同じように支配する事は絶対に出来ないものと決っているものでありましょうか。
もしこの鼻の表現を自由自在に使いこなして、如何なる出鱈目でも嘘っ八でも決して他人に看破されない位に充実した鼻の表現でもって、その真実である事を裏書きして行く事が出来るものがいるとしたら、その者は如何に恐るべき成功を世渡りの上に博する事が出来るでありましょうか。
如何なる残忍酷薄な奴でもその鼻の表現に、自由自在に熱情の光を輝かす事が出来るものとしたならば、その人間の運命は如何に光明に満ち満ちたものとなり、その人間以外の社会生活は如何に暗黒な不安の裡《うち》に鎖《とざ》される事でしょうか。
ここに「悪魔の鼻」と題しましたのは、この鼻の表現をある程度まで自由に支配しうる種族が人間社会にかなり沢山に存在しているのを総括して研究し批判して見たいためであります。
一面から申しますれば、眼付きや口もとの表現で他人を欺き得るものはまだ徹底的に欺き得るものとは云えない……悪魔の名を冠《かぶ》らせるに足りない。鼻の表現に依って人を欺き得たもの――即ち全然虚偽の表現を徹頭徹尾真実の表現と見せかけて他人を心から感動せしめ得るものこそ真の悪魔でなければならぬという見方から、かように悪魔式鼻の表現なるものを仮定した次第であります。
先ず悪魔の鼻の研究に先だって是非とも研究しておかなければならぬ鼻が一種類あります。それは名優と称する人種の鼻であります。
名優の鼻
――悪魔式鼻の表現(二)
昔から名優と名を付けられた程の人々は、その身体《からだ》のこなしや眼や口の表現は勿論、鼻の表現までも遺憾なく支配し得たものと認め得べき理由があります。
泣く時は衷心から泣き、笑う時は腹の底から笑う。怒る時は鼻柱から眉宇《びう》にかけて暗澹《あんたん》たる色を漲《みなぎ》らし、落胆する時は鼻の表現があせ落ちて行くのが手に取るように見えるまで悄気《しょげ》返る。悠々たる態度の裡に無限の愁いを含ませ、怒気満面の中に万斛《ばんこく》の涙を湛《たた》え、ニコニコイソイソとしているうちに腹一パイの不平をほのめかす。
これが所謂腹芸という奴で、こうして名優の心の底の変化は腹の底から鼻の頭へ表現されて、自由自在に見物に感動を与える事、恰《あたか》も無線電信のそれの如くであります……。しきりにシカメ面をして涙を拭う真似をしていながら、鼻だけはノホホンとしているために見物には何の感動をも与え得ないヘッポコ役者の表現法とは、その根底の在り処が違うのであります。
彼等名優がどうしてこのような不可思議な術を弄する事が出来るかという疑問は、昔から既に解決されております。その人物になり切って[#「なり切って」に傍点]しまう――その境界になり切ってしまう――という芸術界の最大の標語がそれであります。
その人物になり切ってしまう――見物の中にいい女がいようと、道具方が不行届であろうと、相手方がまずかろうと、人気があろうと無かろうと、そんな事は一切お構い無しに、すべての娑婆世界の利害損失の観念、即ち自己から離れてしまって、その持ち役の人物の性格や身の上を自分の事と思い込んで終《しま》う。その持ち役の人物と扮装と科白《せりふ》と仕草とに自分の本心を明け渡して終う。
その境界になり切ってしまう――すべての実世間の時間と空間とを脱却して、舞台上の時間と空間に魂の底まではまり込んでしまう。舞台の道具立て、入れかわり立ちかわる役者の表現、そこに移りかわってゆく出来事と気分、そこにしか自分の生命は無いようになってしまう。
実在する悪魔
――悪魔式鼻の表現(三)
然るにここに、この名優式の鼻の表現法を堂々と実世間で御披露に及んで、名優以上の木戸銭や纏頭《はな》を取っているものがザラにいるのには驚かされるのであります。
その主なるものは、毒婦とか色魔とか悪党とか又は横着政治家(政治家でいて横着でないものはあまりありますまいが、ここでは仮りに正真正銘の憂国慨世の士と対照してかく名付けたのであります)とか名づけられる種類であります。この他その商売商売に依っていろいろの悪魔性を帯びた者がいくらもあるに違いありませぬが、ここにはこの四つを代表的なものとして取り扱って見る事に致します。
彼等がその鼻の表現を使いわける代価として望むものはいろいろあります。男女の貞操を手はじめに、金銭、貴金属、衣服、財産、その他何でも……わけても横着政治家となりますとずっと狙い処が大きくなって、名誉権勢、地位人望、利権領土、その他あらゆるものを鼻の表現で釣り寄せようとするのであります。
毒婦とか色魔とかが異性を操る事の自由自在さは全く驚くべきものがあります。何方《どなた》にしても嘘とわかっているのにどうしてあんなに根こそげ欺されるのであろうと、さながらに魔術のように感ぜられるのであります。
これには引っかけられる側の自惚《うぬぼ》れや色気や意志の弱さなぞもありましょう。又は引っかける側の弁才や容色もありましょう。しかしその中《うち》にも働きかける側の表現の上手なこと――わけても鼻の先の気分の扱い方の巧《たくみ》なために、受け身側に徹底的の感動を与えるためであることも無論であります。
「それでは私に死ねとおっしゃるのですね」
と云うと、相手の異性は真青になってしまうのであります。これはその鼻が本当に死にたいという切り詰まった表現をしていると同時に、あなたより他に思う人は無いという気心を裏書きしているからであります。同様に、
「あなたとならばドコマデモ……」
という月並みな文句で相手をグンニャリトロリとさせて終《しま》うのは、その秋波が五分もすかさぬ冴え加減を見せると一所に、その鼻の表現がその場合にふさわしい真実味をあらわしているからであります。
これが少々ハイカラなのになって来ると、
「あなたを恋してはじめて私の卑しいすべてが私をさいなみ初めました」
と告白するその鼻が、その謙遜と誠意とをもって自己のアラを蔽《おお》い、且つ相手の同情を動かすべく如何につつましいつらさを示しているか。
「私のようなもののためにあなたのような貴いお美しい方の生涯を傷つけるという事はあまりに残酷だと思うと、つい気が引けて……」
と恥じらいを含んだ鼻の表現が、如何に相手の気を引き動かすに充分であるか、そうしてその自尊心を
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