に対して、何等かの表現能力を持っている事を認め得られない筈はありませぬ」
 果せる哉《かな》、検事の論告は、矢張り検事の役目に背いたものでありませんでした。この三ヶ条の議論は表面上、鼻の動的表現能力存在の可能性を極力主張しているようでありますが、よく考えて見ると左様でないのでありました。いくら鼻が動的表現に埋もれていても、何ぼ形容詞が沢山にあっても、何程都合がよくっても、又は鼻が神様と同格のものであるとしても、眼や口と同じような表現を鼻に押しつけるのは無理であるという事を、深く深く認めさせようという議論の立て方でありました。
「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして尽《ことごと》く肯定本料に依って埋めつくされそうに見えました。
 この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。
「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は――記憶せず――と云い抜けて、暗《あん》にその無能力を認めております。
 すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の舳《じく》は、動的表現をしていなければなりませぬ。嵐の前に黒ずんで行く海も同様であります。船も海も生命があります。動的表現は悉《ことごと》く生命を持っているものでなければ出来ないのであります。
 色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。
 ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。仮令《たとえ》ダメス王の鼻が、その生前に於て眼に止まらぬ位の僅かな変化で、その本人や性格を極めて微弱に表わしておったとしても、眼に見えぬ変化が人に感動を与える筈はありませぬ。鼻の動的表現は悉く錯覚であります。ダメス王の鼻は、王の顔面に築かれたピラミッドに過ぎませぬ」
 この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死――動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的表現は理屈では認められぬ、ただ事実上にのみ存在し得るという事を深く深くうなずかせました。
 法廷のそこここに溜息の評が洩れました。月の神はさらに議論を続けました。
「但し、これだけの事実は認められます。ダメス王の鼻が王自身の表現界の王であった事は、恰《あたか》もダメス王が埃及《エジプト》国の王であったと同様でありました。王の顔面の表現機関は王の鼻の左右大臣であり、その他の全身各部の表現作用は、その召使であり奴隷でありました。しかしこれ等の事実は、そのままに動的表現が不可能である事を証明していたのであります。王の鼻はこれ等の表現の補助を受けなければ、何等の動的表現もなし得なかったのであります。そうしてこれ等の補助機関が細かに動き得れば得る程、王の鼻の表現は殖《ふ》えて行ったのであります。
 ダメス王の鼻は、王の意志、感情、性格、その他王自身に就て、王の知らない事共までも存じていると申します。しかし、知っているということは、表現し得るという事ではありませぬ。
 王の鼻は、その知っている事、感じている事をその臣下たる動的表現係の各大臣に申し付けて表現させました。そうして自分自身の表現であるかの如くに装いました。眼や口には出来ぬ、鼻でなくては到底ここまで深く現わし得ぬものと見られていた表現でも、それは王の鼻が他の表現機関を巧《たくみ》に使い別けて、二重三重の表現をさせて、その表現の中心に結ばった感じを自分の表現と見せかけたものであります。人々はこれ等はすべてを王の鼻の表現と認めまして、これに嘆服し、これを崇拝しました。しかし実は王の鼻は、何等の表現をもしないのでありました。只顔の真中の王座に反《そ》り返っているのでありました。
 王の顔面の総ての表現が、その鼻の表現と認められていた事、恰も埃及国内のすべての出来事が王の責任と認められていた如くでありました。王の全身の表現が、その鼻に依って代表されて他人に受け渡しをされていた事、恰も埃及国の全権が、ダメス王に依って掌握され、ダメス王の名に依って他国と批准交換されていた如くでありました。しかも王は太平楽の裡に無為徒食しておりました。
 王の鼻が総ての表現を代表する事が出来たのは、その鼻自身が無表現だからでありました。
 王の鼻の動的表現の可能性は、その絶対不動のところにあったのであります。
 すべて動的活社会の統一的代表者は、不動的人格の所有者でなければなりませぬ。
 同様に動的表現の支配的象徴者は、不動的表現の具有物でなければなりませぬ。
 ダメス王の王座はこの如くにして、埃及の国家組織の中心に自ら胚胎した事でありました。
 王の鼻の座もこの如くにして、王の顔面の中央に天然自然と開設されたものに相違ありませぬ。
 王の鼻の動的表現が無から有を生じた事は、かようにして遺憾なく証明されるのであります。その動的表現の存在はかようにして否定され得るのであります。
 その間に何等の不可思議もありませぬ。
 何等の予質もありませぬ。
 人間の知識では驚異に値するかも知れませぬ。しかし神の国に於いては、不可解の存在は許されませぬ。予質の神秘は認められませぬ」
 月の神はかようにしてダメス王の鼻の動的表現能力を絶対に否定して、席に着きました。同時に並居る諸神は悉く絶対に、鼻の動的表現能力を認め得たのでありました。そうしてこの時、月の神と犢の神とが人知れず顔を見合わせてニッコリと笑いました。これを気付いていたのは只記録係タータの神ばかりでありました。
 ここに於て四十二名の判官は別室に退いて、一つの判決文を作りました。そうして再び打ち揃って着席の上、中央の二名が立ち上って同音に読み上げました。
「ダメス王は無為徒食せるが故に国家の罪人とは認められざりき。王の鼻も又何等の動的表現を有せざりしという理由のもとに、動的表現界の罪人として認めらるべきものに非ず。その表現界統一の功績は、埃及に於けるダメス王の沿蹟と等しく万人の敬仰礼讃を受くべきものに属す」
 次いで鼻はその黄金の鼻輪を除かれまして、正面の天秤の一方に載せられました。マスピス神はその反対の秤に、誠実を表す鳥の羽根を載せて罪の軽重を計量しましたが、左右の秤は物の見事に平均して、今の判決の真実である事を証明しました。
 ダメス王の鼻は、ロルス神に導かれて正面の上段、ホリシス神の御前に進み寄りました。ホリシス神はこれを掌の上に招き載せて一同に見せながら、玉音朗かに宣言をされました。
「鼻は人間の神である。人界の動静両表現界を主宰させるために余が代理として遣わしたものである。
 独立不動と不羈の向上――は余が秘密に授けた鼻の使命であった。
 ダメス王の鼻が、この使命を最もよく発揮して、ここに人類界最高の記録を破り得た事を嘉《よみ》する。さらにその死後に於ける裁判に於ても、この本領を空前絶後にまで発揮し得た事を嘉する。
 人類の文化は最早《もはや》絶頂に達した。最早鼻の神秘は破れて差し支えない時が来た。ダメス王の鼻に依って月の神と犢の神がこれを破った。ダメス王の鼻以前にダメス王の鼻無く、ダメス王の鼻以後にダメス王の鼻は無いのである。
 ダメス王の鼻は、魔神ラマムに与えらるべきものでない。
 余――ホリシスに与えらるべきものである」
 と云ううちにホリシス神はダメス王の鼻を口に入れてムシャムシャと喰ってしまいました。
 最前から秤の傍《かたわら》に待っていたラマムはこの様子を見ると、ベロベロと舌なめずりをしながら他の鼻を探しに暗黒世界に去りました。
 満廷の諸神は開《あ》いた口が塞《ふさ》がりませんでした。
 ……………………………………………………
 これは三千年前の神の裁判の判決でありますが、これを二十一世紀の今日に於ける鼻の表現の実際に徴して見ると、どんな事になるでありましょうか。

     無意識の表現
       ――鼻の動的表現(八)

 三千年前の「タータの記録」に依りますと、鼻は絶対不動という事になっておりますが、今日では多少動いたり色が変ったりする鼻も珍らしくないようであります。これはタータの記録があまりに哲学的に論じてあるためか、又は今日の人類がそれだけに進化したためか、どちらかでなければなりませぬ。
 しかしいずれにしましても、鼻が独力を以て動的表現をなし得ない事は先ず事実と認めて差し支えありますまい。鼻がたった一人で如何に色を換え、形を換え、手を変え品をかえて見ても、結局それは何を意味しているのか判然しませぬ。眼だけが細く波打って笑いを見せ、口だけがへの字になって怒りを見せるのとは同日の論でないのであります。
 しかし同時に鼻が些《すこ》しでも鼻以外の表現能力の補助を受けると、直ちに驚くべき表現力を発揮し得る事は、事実が証明しているのであります。さながら竜の水を得たるが如く、又は虎の山に凭《もた》れるが如く無辺際に亘って活躍して、鼻以外の表現能力が発揮し得ない範囲にまでも遠く深く及ぶものであります。
 ここに於て鼻の表現能力は如何なる哲学、如何なる宗教、如何なる芸術も解決し得ない不可思議その者となって来るのであります。
 永久に解決出来ない神秘で、しかも眼前にある明白な事実となって来るのであります。
 所詮、鼻は表現界中央の重鎮……表現界のドミナントであります。
 偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の後押《あとおし》も出来ません。しかるにこれにいったん有意有能な同志や乾児《こぶん》がくっつくと、無限不動の裡《うち》にその同志や乾児の総ての能力以上の価値を示す事が出来るのであります。又鼻は、顔面表現の舞台面に於ける千両役者とも見る事が出来るのであります。
 ……御注進御注進、一大事一大事……ナ、何事じゃ……と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。
 鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。
 同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却《かえ》ってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っているのであります。
 眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。
 鼻の表現はもっと深刻であります。
 もっと真率であります。
 もっとデリケートであります。
 それだけに有意識的に相手に認められ難い。
 それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。
 眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。

     全霊の真相
       ――鼻の動的表現(九)

 鼻はその人の全霊の真相を表明するものであります。そうして最も忠実にこの任務を果しているものであります。
 ここまで研究して参りますと、鼻の静的表現なぞは全く問題でなくなって参ります。
 その人の本心が喜ばない以上、鼻は決して喜びの色を見せませぬ。そうして内心不平であれば遠慮なくムッとした色を見せ、残念であれば差し構い無しに怨めしい色をほのめかしているのであります。
「妾《わたし》はもうとても皆様の御噂にかかるような顔じゃ御座いませんよ。毎日鏡
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