いでも象徴し躍動せしめ得ない表現が、矢張り無限と言ってもいい位にあるのであります。
手近い例を挙げましても今までに出て来た……
……鼻をうごめかす……
……鼻にかける……
……鼻じろむ……
……鼻であしらう……
……鼻っ張りが強い……
……鼻毛が長い……
というような感じの中一つでも眼や口に出来るのがありましょうか。
眼尻を下げても鼻毛はよまれぬ人が沢山にあります。腮《あご》が突張っているのは受け身に強い表現で、働きかけの烈しい鼻っ張りとは場面が違います。鼻であしらうのと腮でしゃくるのとは、初対面の軽蔑と旧対面の傲慢程感じが相違しております。眉をひそめて唇を震わしただけでは「鼻じろむ」の感じは出せませぬ。殊に自慢高慢に到っては、鼻にかけてうごめかすより他《た》にかけてうごめかし処が無いのであります。これ等の事実を考え合わされましたならば、鼻の表現の可能不可能問題は自ら解決されるであろうと考えられます。
鼻の審判
――鼻の動的表現(六)
時は紀元前千二百三十四年、埃及《エジプト》はナイル河の上空に天地の神々が寄り集って、物々しい光景を呈しました。これはこの時に死亡しました埃及王ダメス二世の鼻の裁判が開かれるためでありました。
埃及国の慣わしと致しまして、人間は死にますとすぐに神の法廷に召されて審判を受けます。即ちその心臓を秤《はかり》にかけられて罪の軽重を秤《はか》られ、罪無き者は神と合《がっ》し、罪の軽いものは禽獣草木に生れ換り、悪業の深い者は魔神のために喰ってしまわれる事になっておりました。
ダメス王はその統治する埃及国に於きまして、世界最初の文化の真盛りの時代を作った名王でありました。従ってその鼻の高さは世界最初のレコードを見せておりましたために、特別に天地の諸神の注意を惹《ひ》きまして、扨《さて》こそかような御念入り裁判が開かれたものと察せられました。
その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。
タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。
……………………………………………………
正面中央の高座、白雲黒雲の帳《とばり》の中には、太陽を象徴した天地諸神の主神ホリシス神が、風雨雷電の神を従えて座を構えておる様子であります。
その左右中段には四十二人の判官が、笏形《しゃくがた》の杖を持って整然と着席しております。
下段右側には動的表現界の代表者、犢《こうし》、犬、猫、鷹、甲虫《かぶとむし》、鰐、紅鶴等の神々が列座し、左側には静的表現界の代表者、月、星、山、川、木、草、石等の神々が居流れております。
その中央に黄金の鼻輪に繋がれて引き出されたのが、今日の被告ダメス王の鼻で、その背後には同じ王の眉と眼と口と耳とが証人として出廷着座しております。
ダメス王の鼻の前には一基の天秤がありまして、豹の頭を持ったマスピス神が鼻の罪量を計るべく跪《ひざまず》き、その直ぐうしろには記録係タータが矢立てを持って、眼を瞠《みは》り耳を澄まして突立っております。その又うしろには頭が鰐、身体《からだ》が獅子、尻は河馬という奇怪な姿の魔神ラマムが、罪の決定し次第に鼻を喰べさせてもらおうと待ち構えております。
これ等はすべて、この空前絶後の鼻の裁判開始前の光景であります。
やがて正面上段の白雲黒雲の帳《とばり》が開かれますと、水晶の玉座の上に朝の雲、夕の雲、五色七彩の袖《そで》眼も眩《まばゆ》く、虹霓《こうげい》の後光鮮かにホリシス神が出現しまして、赫燿たる顔色に遍《あまね》く法廷を白昼の如く照し出します。同時に正面中央の二名の判官が立ち上って、「鼻の裁判開廷の理由書」を同音に読み上げます。
「被告ダメス王の鼻は、王の顔面の静的動的両表現界の中央に位し、王の存命中傲然として何等の動的表現をなさむ。王の眼、眉、口等が無量の動的表現を以て王の知徳を国民に知らしむべく努力したるにも拘らず、国民の尊信は悉く王の鼻にのみ集中せり。その状|恰《あたか》も王のすべての表現の功を奪えるに似たり。凡《およ》そ無為徒食して他の功労を奪う者は重罪者たるべき事、神則人法共に知るところなり。依ってこの裁判を開き、ダメス王の鼻の罪の有無を諸神の批判に措《お》き、ホリシス神の御名に依って処断せむと欲するものなり」
読み終った判官の一人は厳然としてダメス王の鼻に問いました。
「被告ダメス王の鼻よ、汝に於て弁疏《べんそ》せむと欲するところあれば速《すみやか》に述べよ」
ダメス王の鼻は面倒臭そうに唯一言、
「弁疏無し」
と答えました。
この態度を見た満廷の諸神は、皆驚きの評を発しました。今まで死後の裁判に引き出されて、怖れ戦《おのの》きつつ自分の善行を陳《の》べ立てぬものは只の一人も無かったのであります。既に木乃伊《ミイラ》にされたダメス王自身でさえも、一平民と同様に法廷の甃《いしだたみ》にひれ伏した位でありました。然るにその鼻ばかりが王の生前の威儀を保ち、神々を恐れる気ぶりも見せぬという事は、実に前代未聞の事であったからであります。
顔を見合わせた判官たちは、次々に立ってダメス王の鼻の訊問を初めました。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
問…被告ダメス王の鼻よ、汝は汝自身に静的と動的の両表現界のいずれに属するものと信ずるや。
答…予は両表現界の代表者なり。
問…王の眼、口、眉等は王の生前、各独立してその固有の動的表現をなし得たり。汝は独立して何等かの表現をなし得たる記憶ありや。
答…無し。
問…被告ダメス王の鼻よ。汝は汝自身に非ざればなし得ざる表現として他に認められたるものありや。
答…無限にあり。
問…そは他の顔面表現係の補助を受けてなし得たるものに非ざるなきか。
答…記憶せず。
問…この事に就いて考えたる事なきや。
答…考えてなし得る表現は尽く虚偽なり。生命は刻々に流転す。予はその真実を知るのみ。
問…知りしのみにて表現はせざりしか。
答…記憶せず。
問…王の眼、口等は王の命に依ってその敵手たるキタ人、エチオピア人、アッシリア人、リビア人、又はその愛する女性等に対し屡《しばしば》虚偽の表現をなせり。而して屡その虚偽なる事を看破されたり。王の本心を知り得る汝は窃《ひそか》にこれを表現したる事なきや。
答…記憶せず。
問…然からば汝は如何なる能力を自信して王の表現のすべての代表者なりと云うか。
答…予はダメス王の鼻なり。
問…王の動作もしくは静的表現の成果のすべてを盗みしに非ざるか。
答…知ってこれを代表せしのみ。
問…ダメス王は汝が王のすべてを知れる事を知れりや。
答…知らず。
問…何故に知らざるか。
答…自惚《うぬぼ》れのために。
問…汝の知り且つ代表せる範囲とは、王自身の有意識界、無意識界、動的表現界、静的表現界のすべてを意味するか。
答…それ以上。
問…王の生前死後の総てを含むか。
答…それ以上。
問…王を中心とする自界他界、宇宙万有、地獄天堂の過去現在未来までもか。
答…それ以上。
問…叱《しっ》! 汝はホリシス神の御前にある事を忘れたるか。
答…ホリシス神が予の前に在るを知るのみ。
問…咄《とっ》! 然らば汝は神なるか。
答…人間の鼻なり。
問…汝の答弁は尽くその真なる事をホリシス神に誓い得るか。
答…誓うに及ばず。
問…言語道断! 何故に。
答…ダメス王の鼻、神の鼻に非ず。
[#ここで字下げ終わり]
独立|不羈《ふき》、神を神とも思わず、ダメス王の鼻はこうして遂に神の法廷を威圧して終《しま》いました。その答弁は一つ一つに諸神を驚かすばかりでありました。真実《まこと》か虚偽《うそ》か、本気か冗談か、平気か狂気か、イカサマ師か怪物か、そうして有罪か無罪か判断に苦しむ大胆さ、しかも生前の主人ダメス王の真価値は勿論、神の権威の軽重までも計りそうな意気組を示しております。
只ホリシス神の御機嫌のみは益《ますます》麗しいと見えまして、その顔色は益晴れやかに輝き渡りました。
これに力を得た判官の一人は立ち上って、眉と眼と口と耳の四人の証人に向って、鼻の言葉の真実《まこと》であるか否やを問いました。然るに驚くべし、眉は最前から逆立ちをしております。同様に眼は色が変り果てております。口は顋《あご》が外れたと見えまして開きっ放しになっております。耳は大熱に浮かされて火のように赤く燃え上っております。今まで友達と思っていた鼻が、生前の温柔《おとなし》さにも似ず余りに無法な方言をするのに驚かされて、巻き添いを喰いはしまいかという極度の恐怖から、かように正気を失ったものと察せられました。命に依って現われた法廷の掃除人、蟻の神は四人の証人をそのままにダメス王の木乃伊の寝棺に返してしまいました。
判官は仕方なしに仮りに鼻の答弁を真実と認めて、これに依って検事と弁護士とに罪の有無を論争させる事にしました。
権威と使命
――鼻の動的表現(七)
検事の役目を承わった動的表現界の代表者、犢《こうし》の神は鼻息荒く立ち上って、劈頭《へきとう》左の如く論じ出しました。
「被告ダメス王の鼻には動的表現があったと認めなければなりませぬ。動的表現界に於ける詐欺行為者と認める訳には参りませぬ。ダメス王の鼻は王の生前に於て眼や口その他の動的表現係より受けたる恩義に酬《むく》ゆるために王の死後、『動的表現をなしたる記憶無し』と主張している者である事を先程よりの答弁の中《うち》に充分に認める事が出来たのであります」
この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の詭弁《きべん》ではあるまいかと、益《ますます》一同の耳を引っ立てさせたのであります。
「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。
第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。
第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が頗《すこぶ》る多いので、どうしても鼻の動的表現を認めなければならぬ事になるのであります。
第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の戒《いまし》め、人の恐れとして誠に結構な実例を残すことになるのであります。さもない限り世間は虚偽の表現のみに埋め尽されて、世道人心は忽ちに腐敗し去るのであります。神は地上に何等の神的表現を見せませぬ。けれども下界の人間は、天体地上の万象を悉く神として尊信しております。さらに恐れ多い事ながら、それ等のすべての主宰として、これ等のすべてを知ろし召す唯一神の神的御在位をも信じ奉っているのであります。況んやこの明知赫燿たる神の法廷に於て、ダメス王のすべてを知っている鼻が、その有意識界無意識界の変化
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