ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。
その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。
つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。
「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、上《うわ》っ面《つら》だけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかという閑日月が出て来る。その気持ちを代表した睡《ねむ》そうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上《のぼ》ってはいまいかと想像し得る位の事であります。
これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ辷《すべ》ってツンのめろ」という俚謡《りよう》があります。「ぬかるみ辷って」云々は余計な言葉のようでありますが、実は左様《さよう》でないので、相手があまり嵩《かさ》にかかって意地悪を発揮して来る、こちらを圧倒すべく鼻がイヤに下を向いて折れ曲って来るような感じを与える、此奴《こやつ》がツンノメッテヒシャゲてしまったら嘸《さぞ》いい心持ちであろうという心を唄ったもので、小供が大人にいじめられて安全地帯まで逃げ出した時なぞによくこんな事を云ってはやし立てているのを見受けます。
「鼻がつまったような奴」という形容詞は一寸《ちょっと》珍らしく感ぜられるかも知れませぬが、あるにはあります。これも前のと同様に純然たる性格の表現で、一寸当世向きしないような感じを与えるものであります。
相手が茫々《ぼうぼう》たる無感覚でちっとも鼻の表現をしない、時々腹の底で薄笑いしているようにも見える、この方を馬鹿にしているようにも見えるし尊敬しているようにも見える、わかったのやらわからぬのやら賛成やら不賛成やらサッパリ判然せぬ、大人物やら小人物やら大馬鹿やら大利口やらそれすら見当が付かない、無意味か有意味か知らず、ただ空《むな》しく有耶無耶《うやむや》としているもののように見える場合に云うので、極端にえらい人やえらくない人、大人物を装うものや負け惜しみの強い卑怯者、又はいくらか頭のわるい人の鼻によく現われるニューッとした表現であります。
蓄膿症や鼻加答児《ビカタル》なぞで鼻の中が始終グズグズして、判断力や決断力の鈍った人なぞにも多く見受けられるようであります。
馬鹿囃子
――鼻の動的表現(四)
昔から認められている「鼻の表現」の数々をここまで研究して参りますと、どうしても問題にしない訳に参りませぬのは、「おかめ」と「ヒョットコ」と「天狗」のお面であります。
いずれも子供衆のお相手|位《くらい》のもので、真面目腐って研究するのは馬鹿馬鹿しいようでありますが、お伽噺《とぎばなし》の中に人生の大問題が含まれているように、この三通りのお面にもなかなか容易ならぬ意味が含まれているのであります。
これ等のお面の表現の中心になっておりまする三様の鼻の表現は、人間の性格を三つの方面に分解して、その一つ一つの方面を芸術的に誇張された鼻の表現に依って代表させたものと見るのが最も早わかりで面白くて、しかも意味が深長なようであります。
「天狗」はその才能、通力なぞいうものに対する極度の誇りを、その素破《すば》らしく高い鼻に依って表明しております。そうして鼻以外の処は眼を怒らし歯を噛みしめ顎鬚を翻して、
「何が来ても恐れ入らないぞ、何を持って来ても満足を与えないぞ、おれ様がどんなに豪《えら》いか知らないのか」
と、虚勢を張った表現をしております。
「おかめ」はこれと正反対に、普通以下に低いその鼻の形でそんなプライドが少しもない心を見せております。同時にその眼は細く波打ち口はすぼまり頬ペタは笑《え》くぼを高やかに盛り上げて、
「すっかり満足致しておりまする。何もかも勿体ない位面白くておかしい事ばかり。只もう嬉しくて嬉しくて」
という表現を作っております。その表現はそのチョッピリとした鼻の背景として、そうした気分を弥《いや》が上にも引っ立てているかのように見えます。「おかめ」の一名をお多福というのは、こうして現在のすべてに満足している気持ちを云ったものと推察されるようであります。
畢竟《ひっきょう》するところ、この二つの鼻の表現は人間の性格の両方向の行き詰りで、「天狗」は極度の増長と高慢を――又「おかめ」は極度の謙遜と無知無能とを表現しているのであります。
然るに「ヒョットコ」となると、その高慢も謙遜もありませぬ。全く明け放しの鼻の表現をしております。
すべてに対して驚いております、不思議がっております、ビクビクしております、うろたえております、ヒョットコヒョットコしております。只色気を見せる鼻毛と、喰毛《くいけ》を見せる口だけが並外れて長いという、つまり極度に文化程度の低下した無知無能な性格を表わしております。地方に依りまして「ヒョットコ」の一名を「モグラ」というのは、土から顔を出して眼をパチクリさせるなり慌ててもとの土にもぐり込む※[#「鼠+(偃−イ)」、482−17]鼠《もぐら》の鼻の表現に似た表現だからではありますまいか。
この三種の仮面はかようにして、いずれもその思い切り誇張された鼻の形に依って、一時的もしくは永久的に現われる人間の性格の三つの傾向を代表させております。
この三種類の鼻の表現が代表する人間の性格の三つの傾向は、大きく云うと人類の文化――小さく云えば個人の性格と非常に深い関係があるのであります。即ち人間の性格は、この三つの中《うち》どちらに傾いてもその向上発展は望まれなくなるのであります。その代りこの三つのお面が自覚さえすれば直《ただち》に進歩発達の道に入ることが出来るのであります。「天狗」の自慢が消え、「おかめ」の無知無能が眼覚め、「ヒョットコ」がその色気と喰気から救われるのであります。
この三つの傾向を自覚というものに依って取り纏めて行くところに人間の性格の向上進展があるので、この三種類の鼻の表現を取り合わせて人間らしい高さと恰好に加減して行くところに、鼻の表現の根本原理が含まれているのではないかと考えられます。その証拠には人間が無自覚であればあるだけこんな鼻の表現に陥り易い。同様に国家や民族がこの三つの傾向のうちのどれかに囚《とら》われた時、その国家や民族の運命は下り坂となるのであります。
こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お神楽《かぐら》」というものは、鼻の表現によって象徴された無自覚な性格の分解踊りとも見られるようであります。同時に馬鹿囃子という音曲の名前も、まことにふさわしいものとなって来るのであります。
かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような――面白いような、自烈度《じれった》いような気がする。人生の或る基調に触れて人の心をひきつけるようなところがある。
……実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である……という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。
本来無表現
――鼻の動的表現(五)
この他《ほか》古今の文献、詩歌小説、演劇講談、落語俗謡、その他《た》の言語文章、絵画彫刻なぞいうもの、又は外国語等にも亘って調べましたならば、随分沢山の鼻の表現が現われて来るであろうと想像されます。しかし以上述べましただけでも「鼻の表現」は存在するものである、就中《なかんずく》その動的表現は意想外に夥《おびただ》しいもので、しかも顔面の表現の中《うち》で最も偉大な役割を勤めているものであるという事があらかた御諒解出来たであろう事を信じます。
しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。
「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」
と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。
「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。強《あなが》ちに鼻ばかりが本心の動き方を表現し得るものでない。寧《むし》ろ鼻というものは舞台の中心に置かれた作り物と見るべきが至当で、その場面の表現は他の役者が遣るからその作り物にも意義が出て来るのと同じわけのものではないか」
この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に御尤《ごもっと》も至極な理屈と申し上げなければなりませぬ。
事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。
仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。生憎《あいにく》な事にはそんな場合に限ってかどうかわかりませぬが、とにかく相手の鼻は何等の表現を見せませぬ。色や形を微塵もかえませぬ。
これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に悉《ことごと》く鼻を中心として焦点を結んで、こちらの顔に飛びかかって来るように思われます。
しかし鼻はそんな場合でも吾不関焉《われかんせずえん》と済ましております。まるで嵐の中《うち》に在る鉄筋コンクリートの建築物のようで、只風景の中心の締りにだけなっているかの観があります。意志のお天気の変り工合や感情の風雲なぞの動き工合で色や形の感じが違って行くように見えるだけであります。
……矢っ張り鼻には動的の表現は無い……変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない
……あっても他動的で自動的ではないにきまっている……
という事になります。
この観察は悉く中《あた》っているのであります。鼻は本来自動的には極めて単純な表現力しか持たない……本来無表情と見られても差し支えない事を鼻自身も直《ただち》に肯定するに吝《やぶさか》なるものでないと信じられるのであります。
ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。
人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか判《わか》らないのであります。鼻が登場しなければ眼や口がいくら騒
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